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極真空手の偏向〜武道とは何か(2021/2)

極真空手の偏向〜武道とは何か  
2021年02月04日アメーバブログより
テーマ:武道、空手について

小論文/極真空手の偏向〜武道とは何か

 

その1

【はじめに】 

 実は、私の道場における組手法の改定(TS方式の実施)は、7年前に始めた「フリースタイル空手プロジェクト」の延長線上にある。だが、極真空手の組手法を基盤に組み技も認めるフリースタイル空手競技と顔面突きあり、かつ防具を使った組手法は別物と思うに違いない。

 それでも、私の意識内では同一線上にある。その事を理解してもらうためには、フリースタイル空手競技を考案した核心を伝えなければならない。

 フリースタイル空手の核心は、極真空手の偏向を修正するためだった。「極真空手の偏向」と言えば、誤解や反論を招くかもしれない。だが、あえてそういうのは、その事実を認識できなければ、私の感覚、考えは到底理解できないと思うからである。ただ、少し語気を和らげ、「偏向」ではなく、「改善すれば、さらに良くなるという課題」と言い換えれば良いかも知れない。以下、「極真空手の課題」として、並びに「フリースタイル空手プロジェクトの総括」として小論を書いてみたい。

【極真空手が永続的な発展を遂げるために】

 私は極真空手が永続的な発展を遂げるためには、重要な課題が二つほどあると考えている。課題の一つ目は、統括組織がバラバラになり、かつ極真空手の組手法を真似た空手集団(団体)が乱立していく状況をどうするかと言うことである。この課題を解決しなければ、極真空手の価値が低下していき、決して高まることはないだろう。このことは、大山倍達師範が極真空手として世界中に広めた独自の直接打撃制の空手競技の価値が下降の一歩を辿って行くと言うことだ。もちろん、私は過去における極真空手の価値が最高だったとは思っていない。だが、弟子の努力により、さらに高めて行くのが本来の道であろうと思っている。

 フリースタイル空手プロジェクトの開始当初、私は極真空手の普及度と人材(選手)のをもってすれば、オリンピック競技、あるいはそれを凌ぐ競技として確立できると考えていた。それには競技ルールおよび競技を統括する組織の修正が必要であると考えていた。そして、詳しくは書かないが、私は協力者を求め、様々なことを試みた。たが、その試みは失敗に終わり、かつ、ほとんどの人が共感しなかった。否、私の構想を理解できなかったのであろう。

 課題の二つ目は、実効性が高い打撃系格闘技、また武術、さらに武道として、その技術と技能、および理念、思想(武道哲学)が高い次元で体系化されていないと言うことである。現在、多くの人が目先の利益、要するに勝利、強さを追い求めている。言い換えれば、剣道のような日本思想の精華とも言えるような理合・理法の体系がないことである。当然、優れた技術や技能、そして哲学としての心法が存在しないと言っても過言ではない。

 実は剣道の創設は戦後である。しかしながら、剣道の創設以前には、明治時代に大日本武徳会が剣術流派を取りまとめていた。その大日本武徳会が戦後解体されたが、剣道のルーツは大日本武徳会を含め、日本刀の創出された平安時代あたりから始まる剣術諸流派の誕生まで遡る。それらを含めれば、剣道の歴史は1000年以上もの歳月を経ていると言っても良いだろう。

 また、剣術は、江戸300年の時代に、武芸として発展と衰退、そして復活という変遷を経て、武士の教育手段、かつ文化的なものとして昇華された。そのような歴史を有する剣道から比べれば、空手は長い歴史を有してはいない。言い換えれば、ごく最近、時流に乗り、急激に拡大普及した武道と言っても過言ではないだろう。そのような空手に剣道と伍す修練体系を求めるには無理があるかもしれない。

【課題を解決するために】

 さて、先に挙げた二つの課題を解決するために、私は以下のような考えを持った。まず、一つ目の課題を解決するために、極真空手愛好者が協力し、文化的公共財として、すなわち武道スポーツとして再構築することを構想した。それは空手をオリンピック競技化するということでもある。(その後、空手はオリンピック競技となったが確定的ではない)。もちろん、空手のオリンピック競技化には、極真空手の組織ではないWKFという空手組織がオリンピック競技化を先行していたことは知っていた。だが、それが実現しないのは、空手がオリンピック競技にふさわしいものに未だなっていないからだという仮説を持っていた(ただし、必ずしもオリンピック競技ににふさわしいということが良いことであり、ふさわしくないということが悪いことだというわけではない)。

 また、私は一つ目の課題を解決すると同時に二つ目の課題も解決したいと考えていた。具体的には、現在行われている極真空手の修練法に希薄になった、「理合・理法」の意識を取り戻したいと考えたのである。

【理合・理法の意識】

 前述した「理合・理法の意識」は、言い換えれば、剣道では基本とされる「間合い」の意識、また、「機先」を制する意識のと言っているも良いお。もちろん、戦いの理合・理法には他にもある。だが、まずは、「間合い」そして「機先」の意識を取り戻したかった。そうでなければ、レベルの高い武道として発展しない、と私は考えた。そして、その課題を解決するために新しい組手法、競技法を考えたのである。それがフリースタイル空手であった。

 私は極真空手の創設時には、多少だが「理合・理法」の意識はあったと思っている。だが、競技が人気を博する中、愛好者達は、競技の勝ち負けを優先し、かつ勝利に拘泥していった。そんな中、だんだん「理合・理法」の意識希薄が希薄になっていった。本当は武術としてさらに研ぎ澄まして行かなければならなかったのに、と私は思った。だが、人間の欲望の追求が理念の高次化を妨げた。また、勝負を判断する側の眼力(認識力)がなかった事、そして試合法にも瑕疵があったのだと思う。

 以上のことをもっと早くに、そしてストレートに唱えればよかったのかもしれない。だが、当時の私には、極真空手を大事にするあまり、それを認識させるための良い手法が思いつかなかった。それゆえ、核心から逸れてしまい、フリースタイル空手プロジェクトの目的が的確に伝わらなかったように思う。

 もう一つ、伝わらなかったことの原因は、組織を作ろうとしたことにあると思っている。また、周りのレベルに合わそうとしてしまう私の気弱な性格にあると思っている。だが、その失敗を経て、かつ年老いて、より一層の「理合・理法」の意識を把持する事の必要性を感じている。なぜなら、どんなに体力を補強し、破壊力を求めても、身体の老化は進み、やがて死滅する。そのような身体を用いる武術にあっては、肉体的な強さなど、たかがしれている。ゆえに「理合・理法」の探求、すなわち「道」を求める志がなければ、本当の強さには至らない、と私は考えている。なぜなら、道(天の理法)との一体化こそが人間にとって、最も強い在り方だと直感するからである。

 実は、このことを全日本大会で優勝した、20代の頃から痛感していた。だからこそ、100人組手という非合理な修行に望んだのである。いずれ100人組手論についてはまとめてみたい。おそらく、ほとんどの人が100人組手に関して浅い理解しかしていない。否、間違った解釈をしている。

【拓心武道の「理合・理法」について】

 ここで、我が拓心武術(武道)の「理合・理法」について簡単に述べて見たい。「理合」とは日本の古典武道で使われる概念用語である。また、国語的に言えば、理合の理とは、「ことわり」「物事の道筋」「道理」と辞書にある。

 そのことを踏まえつつ私は、「理合」とは「理に合わせること」だと考えている。つまり、自己の心身を「理」に合わせる術が、武術の術である。ゆえに武術の修練には型稽古が重要なのである。ただし、「理に合うこと」となると異なってくる。繰り返すが、「理合」とは「道理」に合うよう自他を制御すること。そのような主体的な意識のことを「理合」というのだ、と私は考えている。また、私の研究している拓心武道では、「理合」を「理法」と呼び、事物が具現化するための道筋として定義している。例えれば、言葉を組み合わせ多様な意味を構築するために必要な文法のようなものだといっても良い。つまり、一つ一つの動作を組み合わせ、一つの意味ある技を具現化するための法則・原理と言っても良いかもしれない。いうまでもなく、紙に書いたり、発話したりする言葉と武術の技は異なり、武術の技は、自己の身体を用いて、その意味を相手に伝えなければならない。そのためには身体に意味を作り、かつ動きに意味を産みだすような技能が必要なのである。さらに言えば、心身を用いる技に必要な理法には、人間を中心にした理法と自然界を中心とした理法、二つの理法があると考えている。つまり、武道の修練とは、武の修練を通じ二つの理法を総合すること。すなわち、人間の理法を究めると同時に天地自然の理法を究めることになる。それら二つの理法を究めんと志すことが「道を求める」と言うことである。

 ここで脱線すると、「理」とは中国語、中国哲学に語源があると思われるが、「ことわり」は大和言葉ではないかと思う。そして、「ことわり」の意味とは、「ことーわり」ではないだろうか。つまり、「事を割っていく」。すなわち物事を細分化する事であると思う。そして理合となると、その細部化したことを総合し、活かしていくことだと思う。これは、私の「寄り道癖(脱線癖)」である。子供の頃から寄り道をしては時間に遅れた。寄り道の性壁を治したいのだが治らないようだ。なぜなら、寄り道がとても好きだからだ(このような論考も寄り道かもしれない…)。とにかく、この部分は寄り道なので忘れてもらって結構である。御免。

 

【「間の理法(間合い)」と「機先の原則(理法)」】

 
 話を戻せば、相手を打撃技で殺傷する空手術の修練で基本としたい「理合・理法」は、「間合いの理法(間の理合)」と「機先の原則(理法)」の二つである。ここで私の言う二つの理法について大まかに述べておく。

 先ず、「間の理法」の「間」とは、打撃技が有効となる空間的、彼我の距離的な意味合いでの「間合い」のことである。また、間には心理的な面も影響するが、そのことに何して、ここでは割愛する。剣道では、一歩踏み込めば相手が打てる「間」、一歩退けば打を避けられる「間」を一足一刀の間、打ち間と呼び、基本の間合いとしているようだ。私は、空手術には突き技と蹴り技があるので、「突きの撃間(うちま)」と「蹴りの撃間(うちま)」を設定し、それを基本としている。その他、接近し相手の突き蹴りを封じる「近間」、それ以外に、離れて安全圏に身を置く「遠間」も設定している。それらの間を認識し、かつ活用して自己の攻撃技を活かすことを考える。以上が「間の理法」の大まかな意味合いだ。

 そして「機先の原則(理法)」とは、自他の距離的(空間的)な「間合い」を了解した上で、さらに時間的に優位になるように、いかに攻撃するかの理法である。これも大まかに説明すれば、機先の原則に「三つの先」を設定する。一つ目の先は「先を活かす」とは、自己の仕掛けの起りを相手に察知されないよう相手より早く、先をとり攻撃する事である。これを拓心武術では「仕掛けの先」とも呼ぶ。二つ目の先は「後の先を活かす」とは、相手の攻撃をいち早く察し(読み取り)、相手の攻撃に対し〈防御×攻撃〉によって先をとり攻撃をすることである。これを拓心武術では「応じの先」とも呼ぶ。3つ目の先は「為合いの先を活かす」とは、相手との攻防(試合・仕合い・為合い)の流れの中で先をとり(機先を制し)、攻撃することである。これを拓心武術では「為合い(しあい)の先」とも呼ぶ。また、我が空手では、相手の攻撃と一体化して攻撃する方法を「合撃(あいげき)」として、高度な「応じ」としている。これは相手の攻撃を飲み込むかのように相手の攻撃を読み取り、それに応じなければならない。以上の「間の理法」と「機先の原則理(理法)」を念頭に、攻撃技と防御技、そして運足を駆使して攻防を行う。それが拓心武道における組手修練法なのである。さらに、拓心武道においては「運足の理法」「心の理法」「位置取りの理法」「体の理法」、その他を分類整理し、体系化したいと考えている(検討中)。以上のような「理法」の体得を目指してこそ、空手修練が「道」の追求の手段となるのだ、と思っている。

【フリースタイル空手プロジェクトの総括】

 誤解を恐れずに述べれば、私がフリースタイル空手プロジェクトを休止しているのは、全面的な見直しのためだ。もちろん、当初は資金不足による活動の困難もあった。だが、本質的な問題は、私が一つ目の課題をクリヤーするために意識した、極真空手人の協力が得やすいようにとの思いに挫折したこと。もう一つは、顔面突きなしのフリースタイル空手競技では、二つ目の課題が解決しないと判断したからである。

 具体的に言えば、フリースタイル空手プロジェクトに協力してくれた人たちのほとんどが「組み技に対処するにはどうするか」「相手を倒す(投げる)にはどうするか」と言うような方向に意識が向かったと思う。

 フリースタイル空手競技を考案した当初、まずもって顔面突きなしの極真空手愛好者に競技を理解、参加してもらおうと考えていた。要するに一つ目の課題の解決を意識していたからである。だが、その期待は無残に裏切られたと思っている。それは、多くの人が私の志と呼びかけに協力してくれた有難い人たちであった。その人たちにはとても感謝している。そして、その人達の協力に報いるためにも、理念を高め続けなければならない。だが、ほんの数人、試合に参加し勝者の評価を得たいという、極めて個人的な名誉欲で動いていたのだと感じた。その者たちは、自分の都合の良い時だけ我々と関わり、我々が困っているときに我々を助けなかった(彼らには、その自覚もないだろうが)。もちろん、確立された競技なら、試合だけで関わることは普通のことかもしれない。しかしながら、私が構想したプロジェクトは、志を持って始めたプロジェクトである。その志を理解しない人達を見た時、私は夢から醒めた気がした。極真空手を一つにしたい。空手を一つにしたい。空手人の心を一つにしたい。その思いがとても愚かなことに思えた。これ以上は書かないが、兎にも角にも、極真空手を高めるという理想を追い求めてみたかった。しかし資金も続かず、同志も集まらなかった。私は撤退を決め、しばらくは考えを深めるためにプロジェクトを休止とした(私の脚の血管や腰等に障害があったこともあるが)。その後、研究を進めて行く中で、極真空手の偏向の原因、そして一番の課題は、二つ目の課題にある確信した。

【極真空手の原点に立ち戻り】

 端的に言えば、まずもって、極真空手のような競技法をむやみに続ければ、やがて「間の理合」や「機先を制する」意識が希薄になって行くだろう。そのような感覚、そして認識では、より正しい判断など望むべくもない。そこで、私は武術、そして極真空手の原点に立ち戻り、修練法を再構築したいと考えた。ただし、極真空手の基本には空手術の原点的な技が残されている。また、中国武術や日本の柔術、柔道、鎖鎌まで、またムエタイやボクシング、レスリングまで、古今東西、様々な格闘技術(武術)が極真空手には取り入れられている。そのことは大山先生の武術に対する熱意と努力の賜物であり、極真空手が武道として飛躍する可能性の核だと思っている。だが、その核を我々門下生はなおざりにし、かつ活かしきれていないてだけだと思う。私はその極真空手の核を活かし、極真空手を再構築したい。

 極真会館が分裂したことの原因は、大山先生にもあるだろう。だが、私は師の恩に報いるためにも、方向性はただ一つ、極真空手の修練体系をより高めていくことだと見定めている。もしかすると、そんなことより門下生を増やせと言われるかもしれない。しかし、そんなことを言っているから、極真空手の門下生は喧嘩をして分裂した。これからもそれは続くに違いない。私はそんな生き方はしたくない。生意気だが師には許してもらいたい。極真空手を基盤にその根を深く張り、かつ枝葉を伸ばし、この志を残しておきたい。これ以上、言葉で説明することは機会を待つ。私は、そのことをようやく理解できた。そして、私が考える極真空手の一つ目の課題の解決法としてのフリースタイル空手の創設は心に秘めることとする。一方、極真空手の二つ目の課題の解決に注力したい。そして、心眼が拓かれた、一人でも多くの武道人を育て、仲間となっていきたい。それが拓心武道(メソッド)を確立し伝えることだと考えている。さらに私の理想とする空手武道について以下に述べておきたい。

【私が考える武道~本当の強さの追求】 

 私が考える拓心武道における各種理法とは、剣術のように「刀剣(日本刀)が身に当たれば斬られる」という意識が前提にあってこそ、理解できる。また、刀剣(日本刀)という絶対的な道具を前提としなければ理解できない。

 一方、極真空手の技には日本刀のような絶対性はない。その代わりではないが、「打たれ強い」の肉体と精神の獲得がそれに変わっているように思われる。また、その面が極真空手の「特色」、かつ「良さ」「強さ」となっている。だが、その面によって、大事なことが忘れ去られているように思う。確かに極真空手の競技者が有する肉体的なスタミナや打たれ強さ、そして技の破壊力は凄まじい。だが、人間の肉体は絶対ではない。個人差もあり、老いもある。私は、それら肉体の強さが本当の強さなのだろうか、と疑問を持っている。また精神面から見ても同様である。私は武道という究極の境地を目指す修行の到達地点は、そのような「強さ」ではないと思っている。武道が目指す「強さ」とは、もっと高次の強さであると思っている。

 私は拓心武術(武道)を通じて「本当の強さ」を追求していく。「本当の強さ」というような極めて抽象的な概念を言葉で伝えることは困難である。私は、しなやかで強固、また絶えず変化しながらも、本質は変わらないようものだと直感している。それを精神というと違う気もするし、感覚といっても違う気がする。おそらく、それらの概念よりも、さらに根源的な事柄、領域の働きだとの推論を持っている。不適切ながら、あえて表現を試みれば、精神と身体を繋げる領域の働き、仮に本体の働き、と記しておきたい。

 最後に、日本武道と言えるものは、技の修練において理合(拓心武道では理法、道筋という)の体得を目指し、本当の強さの境地に到達すること。同時にその「御-地(み-ち)」への到達を目指す道筋、修練を武道というのだと考えている。

 そのような武道は術の探求をゆるがせにしないだろう。そして鍛錬ー研鑽ー求道を一体とする修行の中には、人間形成の力があると思う。気をつけなければならないのは、修練のための試合を勝利を求める競技としての面だけで捉えるならば、道から逸れる可能性は高い。だが武道の修練とは、すべからく事理を照合し一致させるべき修行だ、と捉えるならば、人としてのあり方、生き方と繋がるような修行となるだろう。また、その事を体認させることが、武道における人間形成と言っても良い。私は、理合の修行と術の探求により、心の眼が開かれ、自己の輝きが増すような武道を創りたい。

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