身体を拓き心を高める〜拓心武道

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有効打という認識と視点

有効打という認識と視点

 

  • 2022年7月2日

 

 

【組手技能を獲得したければ】

 先日、私の主宰する空手道場において昇段審査会が行われました。その総評で私は「攻撃が上手く、防御が下手なものは、まだ本当に上手くない」「防御が上手く(巧みで)、攻撃が下手な者は、まだ本当に上手くない(巧くない)」「攻撃と防御の両方が上手い者(巧みな者)が本当に上手い者(巧い者)」と述べました。

 なぜなら、私は相手を攻略するには、打撃技の精度は当然のことながら、防御技と攻撃技の両方を活用する能力を高める必要があると考えているからです。その能力を私は組手技能と呼びますが、その技能の獲得は誰でもできることです。然しながら、その技能が必要だとの認識がなければ、その獲得の可能性は拓かれません。より端的に述べれば、組手技能を獲得したければ、先ず以って「攻撃法(術)のみならず防御法(術)の両面から修練を行わなければ技能は身に付かない」となります。

【戦術的修練】

 然しながら、私のいう組手技能というものがどういうものなのかが理解できない人が多きのかもしれません。その証拠に、多くの空手流派の組手修練では攻撃法(術)の強化のみに注力しているのではないでしょうか。具体的には、攻撃技のスピード強化、パワーアップ、さらに組み手の際のスタミナ強化が主だと思います。もちろん、それらの修練は武道修練の柱となるものです。また、それらの修練は、武術の修練に付随する訓練的な要素であって、武道の核にある武術修練とは異なるものです。また、そのような修練ばかりを行えば、体力が全てだというような誤認をしてしまう可能性があります。本来の武道修練は、もっと戦術的なこと、技術的なことを習得するものだと思います。ここでいう戦術的修練とは、攻撃技と防御技の運用法を学ぶことです。そのような認識を前提にするからこそ、攻撃技の精度や技の活用のための技能が養成されるのです。

【他の打撃系格闘技の空手競技者の技能を比較した場合】

 おそらく戦術的感覚及び打撃技の技能の面で、空手競技者とボクシングやムエタイ、キックボクシングなど、他の打撃系格闘技の空手競技者の技能を比較した場合、明らかに空手競技者の技能は劣ります。「そんなの当然だ」「ルールが違うのだから」というのは簡単です。また、攻撃技を制限・限定することで、独自の蹴り技が発達したという面はあります。その発達した打撃技を以って、空手は最強、すばらしい、と肯定するのは噴飯物だと思います。さらに言えば、事をそんなに簡単に片付けて良いものでしょうか。

 客観的に眺めますと、他の打撃系格闘技は打撃技のルールにある程度の共通項があるので、技能の構成要素が共通しています。一方、空手の打撃技は、打撃技を当てない、あるいは当てても突き技による頭部打撃は禁じ手とするなどのルール設定により、技能が未発達です。もちろん、そのような組手ルールにしたのには、それなりの理由があることは知っています。その理由の最たるものは安全性の確保だと思います。そして、そのことにより格闘技系武術より老若男女に普及したかもしれません。しかし、そのことにより、武術としての感覚や技能が劣化しました。一方、防具空手や日本拳法などの防具を活用し、突きによる頭部打撃を認める流派には、武術としての感覚や技能が残っているかもしれません。

 ここで私が言いたいのは、どの武術や流派が良いとか悪いとかではありません。私が述べているのは、武術修練として大事な要素は、その格闘技術を磨き高め(殺傷力)、かつ、様々な局面において活用するための技能の養成という認識と視点だ、ということです。

 もう一つ、空手の技能と感覚が武術として退歩している原因は、空手が現競技に囚われているからだと思います。また、そのルールの中での戦いに慣れすぎていることが原因です。多くの空手流派が「空手は武道だ」と謳っています。しかしながら、武道は武術の駆使という特殊な状況下における心身の運用と活用を核にするからこそ、その独自性と有用性がある、と私は思うのです。また、その独自性を忘れては、スポーツよりも劣るものに堕落していくでしょう。断っておきますが、私はスポーツを肯定する立場です。ゆえにスポーツとしての空手も肯定する立場です。

 一方、未熟なルールの中での勝利を盲目的に信じ、その勝利のために攻撃技のみに囚われている競技者の姿には、軍国主義社会における盲目的な視点と精神の抑圧を感じます(精神の解放性を感じない)。もちろん、流派の中での競技法は多様で良いとの立場ですが、然しながら、もし、競技者を数の面で増やし、社会的な影響を与えたいならば、そこには普遍て妥当的な価値観がなければならないと思っています。これ以上述べれば、話が難しくなるのでやめます。

 平たく言えば、空手には防御の意識と防御技能が未発達の競技者が多すぎます。私は、その傾向に対する対策として提言したいことがあります。それは、試合判定に「有効打という認識と視点」を加えることです。
もし、有効打が判定に加えられれば、当てる(攻撃)ことのみならず防御を考えるようになります。同時に、選手のみならず、審判、観客、そして愛好者に技能の優劣が理解できるようになります。また、その視点が加われば、空手競技に新たな価値観と魅力が付与されると思います。

 一方、ダメージを与えて、相手をKOするという判定基準、また短い試合時間、かつ、限定された、これまでの競技ルールを継続していては、技能の養成は困難だと思います。せめてキックボクシングのように5ランドあれば、選手の技能は変わると思います。また、有効打を判定に加えることで、選手の防御技能が高まるのみならず、後述する攻撃技をより有効化する打撃技を当てるための後述する「作り」の意識と技能が生まれるのです。

【競技選手として駆け出しの頃】

 ここで脱線して私が競技選手として駆け出しの頃の話をします。私は自分より攻撃力がある相手と戦う際には、相手の攻撃を絶対に被弾させないとばかりに「受け技」の稽古をし、戦いに臨みました。また、右手が負傷して臨んだ第18回全日本大会では、左手1本と足技のみで全て戦いました。負ける恐怖で2日間、ほとんど眠れませんでした。また、1試合ごとに「生き残った」と「次の一戦も命懸けで」と言い聞かせて戦い抜きました。その際、退き身や入り身、回り込みで位置取り、間合いの調節をしながら私は戦いました。また左右に位置取りをしながら戦う技能を使って戦いました。この位置取り、足使いの感覚は、高校生の頃、柔道の他にレスリングを経験したことが大きかったと思います。レスリングは接近戦ですが、フリースタイルは別です。タックルで脚を取ってくるので、瞬時に相手の動きに反応し、その技の防御を行い、かつ相手を崩し、さらに位置を変えます(バックを取ります)。

 私はレスリングの基本的な動き・技能に強いインスピレーションを得ました。空手とレスリングは競技が異なり、戦う技術も違うと思われる人がほとんどでしょう。しかし、そこが私と他の人の感覚が異なり、理解されない原因だと思います。その時、私はレスリングの技能に内在する原理の中にあらゆる戦い、当然、空手にも活かせる技能の原理があると直感したのです。つまり、私は技能に内在する原理を感じていたのです。幼い頃は、それを原理などとは考えませんでしたが、今は違います。それは戦い(格闘)の原理であり、そこから技能が生じ、また思想が生まれるのです。

【自分の攻撃のみを正確に被弾させる技術を追求】

 長い修練の中で、私の戦い方は、攻め一辺倒の組手から、相手の技を受け崩し攻める、後の先とも言える戦い方に変化しました。言い換えれば、なるべく相手の攻撃を被弾(まともに受けないで)しないで、自分の攻撃のみを正確に被弾させる技術を追求すると言うものに変わりました。しかしながら、今持って、極真空手の世界で、そのような戦い方を目指している者はほとんどいないと言っても過言ではないでしょう。その根本原因を私は、極真空手が顔面突きを禁じていることではなく、有効打を判定基準にしていないという打撃技に対する認識、イメージの問題だ思っています。一言で言えば、攻撃技の判断基準が明確ではないと言うことです。

 攻撃技の判断基準の曖昧さは攻撃技の精度を向上させないだけでなく、防御技術を等閑にします。また、攻撃技を審判が明確に判定しないルールを利用して、打たれ強さを強化し、手数で優位を得ようという戦術が生まれました。その結果、一撃必殺を謳う空手の組手なのに、その打撃技には一撃必殺の切れ味は見えません。もちろん、直接打撃制の空手競技のKOシーンは破壊力を感じさせます。然しながら、理合のわかる人から見れば、相手の防御技技術が未熟なところに攻撃技が当たっていることがほとんどです。

【私が若い頃に師事した浜井識安先生や山田雅俊先生】

 振り返れば、私は幸運でした。なぜなら、私が若い頃に師事した浜井識安先生や山田雅俊先生の指導法は、他の先生とは異なっていて防御技を攻撃技と一緒に教えてくれたからです。浜井先生の場合、まずは上段回し蹴りの当て方としてコンビネーション(拓心武術では連係技)を指導していました。同時に上段回し蹴りの防御技と反撃技(拓心武術では応じ技)を指導していました。そのような指導法は、当時、画期的だったと思います(極真会館では)。山田先生の場合は、まず門下生に下段回し蹴りを防御する「スネ受け」を指導します。そして相手に確実にダメージを与える堅実な攻撃技であるローキックを指導するのです。キックボクシングなら当たり前のことですが、当時の極真会館の空手では当たり前ではありませんでした。おそらく、山田先生は強力な下段蹴りの技を自分の得意技としつつ、その技の防御法も有していました。おそらく、下段回し蹴りの威力を知っていたからだと思います。その威力を知っていたからこそ、その防御技をセットとして修練に組みこみ、門下生が下段回し蹴りで負けないように、と考えたのでしょう。

 浜井先生や山田先生の指導法の共通点は、攻撃技の有効性と同時にその技を防御することを教えること。また、その情報を理論的に門下生に伝えてくれることでした。当時、経験も知識も貧困な幼い私は、もっと豊富な情報や知識を欲していたのです。さらに、浜井先生は私に情報のみならず、さまざまな経験をさせてくれました。そのことが本当に幸運でした。ただ、誤解を恐れずに言えば、他流派に出稽古し、色々と学ぶのは、中途半端になるし、面倒臭いことが多すぎるので嫌いです。浜井先生の場合は、余計な世話をせずに、私に豊富な情報を与えてくれるだけなので、私の性格にはあっていました(私も出稽古はしますが、私は人見知りです)。

【ムエタイの選手は攻撃力のみならず防御技術も優れている】

 もう一つ昔話をすれば、私は若い頃、大阪で1年間生活したことがあります。その時、山田先生の直弟子で後の全日本チャンピオン、故・大西靖人氏と同じアパートで生活していました。当時、私より少し長の大西氏には世話になりました。良い思い出です。しかし、一緒に稽古しても、大西氏は山田先生直伝のその技を教えてはくれませんでした。山田先生の弟子である故大西靖人氏は強力な下段回し蹴りを得意技にしていました。私はその下段回し蹴りを稽古中被弾し、その威力を知り、懸命に防御技を考えました。大西氏は、私が防御法を聞いても教えてくれませんでした。いろんな技を直ぐに教えてくれた浜井先生とは違いました。おそらく、私をライバルだと認識していたのでしょう。懐かしい思い出です。私は、毎日、下段回し蹴りが脳裏から離れませんでした。あるとき、防御技が閃いたのです。その技を大西氏に伝えた時、大西氏が「苦笑い」をしたのを覚えています。しかし、悩んだ結果、大西氏の左下段回し蹴りは私の得意技にもなりました。そのような体験も新しい武道の修練法を考案するための良い体験になったと思っています。後に、その防御技術はムエタイでは基本的技術だったことを知りました。ムエタイの選手は年間に百戦以上も戦うので、相手の攻撃を被弾していては身体が持たない思います。それに加え、ムエタイの勝負判定基準が、膝蹴りやミドルキックをまともにもらうと有効打として判定するということもあると思います。また、テイクダウンも有効技(ポイント)として、判定に影響するようです。そのように判定基準がKOのみならず、有効打の競い合いという構造を有しているのです。私は、そのような判定基準(ルール)があるから、ムエタイの選手は攻撃力のみならず防御技術も優れているのだと考えています。いうまでもなく、ムエタイには打たれ強さもあります。

【「作りと掛け」という概念】

 随分と脱線が長くなりました。これから、「攻撃法(術)のみならず防御法(術)の両面から修練を行わなければ技能は身に付かない」という私の考えについて説明します。

 まず「攻撃することしか知らない」、そのような認識と視点では、身体的に強く、あるいは技能に優れた相手には勝てません。身体的に自分より劣る相手、あるいは技能に劣る相手なら可能かもしれません。そのような戦いばかりを繰り返していてが、攻撃技を真に生かすための技能という発想・意識の萌芽はあり得ません。

ここで想像して欲しいことは、攻撃技が有効になるためには、有効となる情況(状態)が条件として必要だということです。そのことが想像できるならば、いついかなる時も、自己の攻撃技を有効とするには、情況を瞬時に捉える感覚と技能と自己の技を活かす技能が必要なのです。もう一つ、自己の技を活かす技能の発揮には、精度の高い攻撃技と攻撃を有効とする「作り」のための防御技が必要なことです。しかしながら、私のいう「作り」の認識と視点を有する者は少ないと思います。
私は、「作りと掛け」に視点が武道修練には重要だと考えています。この「作りと掛け」という概念は、柔道を創始した嘉納治五郎先生の著書から学びました。
ただし、不遜ながら、柔道の理合を空手武道に適したものとして定義に変更を変更を加えています。柔道関係者にはお叱りを受けるかもしれませんが、嘉納師範の「柔よく剛を制す」というスローガンは素晴らしい者です。また、「作りと掛け」という概念用語は、幼い私の心に強いインスピレーションを与え続けています。
私は幼い頃の柔道経験から、その感覚と視点を学びました。私の柔道修行は未熟で終わりましたが、実は空手武道を修練する間も、心の中にいつも柔道が生きています。言い換えれば、柔道の「作りと掛け」という概念が残っているのです。

 柔道の「作りと掛け」という概念については、柔道十段の故三船久蔵先生が著書の中で以下のように記しています。
「相手の中心点を奪い変化に乏しい不安定の姿勢に至らしめるの作りと言い、その作った姿勢に技を施す事を掛けと言うのである。そして自分を作るとは、崩し作った相手に技を施しために都合の良いように構えることを言うのである」

 現在は、「崩し→作り→掛け」というように教えているようです。私が初めて「作りと掛け」という教えに接した時、インスピレーションを感じたのを覚えています。
繰り返しますが、私のいう「作りと掛け」という概念は若干、拓心武術流に応用しているので柔道関係者は「間違っている」と非難するかもしれません。
然しながら、打撃系武術にその概念を活用できると考え、かつ活用するために考えた上のことです。
私が拓心武術の修練のために仮に定義したものは、「作りと掛け」とは、『拓心武術における「作り」とは、相手を防御困難な情況に陥らせることをいう。さらに、その機・情況を瞬時に捉え、自己の心身を最善に活用した技を繰り出すことを「掛け」という』となります。

【既存の競技に足りないところ】

 私は柔道でいうような「作り」の修練が重要だと思っています。それ以来、私の意識下には「崩しー作りー掛け」といった理法がいつも見えています。技能の修練とは「崩しー作りー掛け」の原理(理法)を習得する修練に他ならなかったのです。そう私は確信しています。しかし、確信すればするほど、自己の技能の未熟さと既存の空手修練法の貧困を感じていたのも事実です。

 一方、柔道には、そのような「作りと掛け」の概念(思想)を学ぶ構造があります。しかしながら、競技が勝負偏重になったことで、柔道も変質した面もあるようです。例えば、相手の技を恐れ腰を引き、また組手争いを繰り広げて、頑なに護りを固めます。それは勝負の中では必要なことかもしれません。しかし、柔道修練、武道修練の真髄とはかけ離れていると思います。私は相手の技と自分の技を自由に交流させ、その原理を学び、かつ、その原理を活用する技能を体得する。
言い換えれば、自他の崩れを知り、かつ、その情況を捉えるために「作り」を施す。その状況を「機」として捉えて、決定的な技を表現する。そこには、絶えず新たな技と高い技能が生み出されます。しかも、その境地には敵はいません。

 なぜなら、その境地における価値は、対立的な争いによる勝利とは一線を画するからです。そして、その境地における価値とは、新たな技と未開の技能を切り拓くという価値です。また自己を解放し、かつ、新たな自己を創造するという、新しい武道の価値と言っても良いでしょう。また、その価値観をもって行う闘いは、自と他が競争する行為を乗り越えた、共創する行為となり、空手武道のみならず、格闘競技に新たな意味と価値とをもたらすと思います。

 要するに、どんな技が有効、かつ優れているのかという認識がより高まれば、すなわち有効打の認識と視点を持てば、さらに空手武道の価値は高まる、と私は考えています。これは柔道の話ではありません。空手愛好者に伝えたいことです。空手は柔道のような構造を有していません。なぜなら、空手には柔道のような柔術の理法がないからだと思います。また、空手には嘉納治五郎師範のような発明者がいないからです。しかし、空手のルーツを辿っていけば、共通性はあると思います。ただ、組手法が未熟なのです。もちろん、柔道の乱取り法も完全無欠だというわけではありませんが。

【攻撃をより効果的とするには】

 おそらく、一般的な空手道場では、攻撃をより効果的とするには、先をとって仕掛けること(仕掛けの先)を基本に教えると思います。然し、相手の攻撃を無視するかの如く、ただ攻撃するのでは自分より体力に劣る相手や攻撃力に劣る相手には有効ですが、もし相手に技能があれば、自滅すると思います。ただ、昨今は少年の空手教室や競技大会が頻繁に行われ、比較的体力に差がないもの同士の組手が基本となっています。そのことは安全性の確保や組手修練による充足感を高めることにつながっていると思います。然しながら、本来は、空手は武術として、真剣勝負、すなわち一つ判断を誤れば、生命の危険に見舞われるという情況を想定しなければなりません。然し、安全性が高い故に、そのような感覚に乏しいように思います。もちろん、安全性が担保された状況における行為は、自己の可能性を拡げることが可能となります。然し、一方で、段々と技術や技能の位相を上げていき、新たな境地に飛躍を見せるには、危険を想定した修練が必要だと思います。だだし、さまざまな職業的背景、心身の背景を有する人達が共有するには、やはり安全性の確保は必要です。そこで、安全性の確保と武術性の確保、そして技能の養成という目標を両立させる事を命題として研究を続けています。

 そのような考え方を元に、私は新たにTS方式(ヒッティング方式)の組手法を考案しました。現在、増田道場では、TS方式という新しい組手法を加えることで、相手の攻撃(動作)の中から、自己の攻撃を効果的にする間隙を見つけ出すことを意識させます。
そのような意識は、組手において無駄打ちをしなくなることのみならず、攻撃によって生じる崩れや隙、体力の消耗などを最小限にできます。また、相手の動作を防御技(拓心武術用語)を駆使して、瞬時に崩し、かつ、自己の攻撃をより効果的にする状態を作り出し、攻撃を決める技能の養成を目標としています。まだ、あたらしい組手法は始めたばかりなので、技能のレベルは低いですが、日に日に向上しています。特に若い人たちの上達は早いようです。このまま修練を続ければ、私の技能を凌ぐものも出てくるはずです。


【実際の戦いは流れの中にいるようなもの】

 もう一つ、実際の戦いにおいては、自己は流れの中にあると考えてください。言い換えれば、情況が刻々と変化している中にある。さらに言えば、自己は過去ー現在ー未来へと流れている、そのように理解してください。戦いを制するには、そのような流れの中で、相手を防御困難な情況に陥らせ、さらに、その機・情況を瞬時に捉え、かつ、自己の心身を最善に活用した技を繰り出すことが必要です。つまり、流れの中で相手の崩れを知り、かつ、自己を活かすこと。それが拓心武術で目指す「作りと掛け」の意識です。同時に、そのような「作りと掛け」の視点が、流れを捉える視点なのです。

 さらに口はばったい事を述べるようで恥ずかしいのですが、武道とは、相手の技をまともに被弾すれば、絶命にもつながるという武術の精神を核にした修練だと思います。もしそうならば、組手においては、相手の技を見下さず、その技を明確に読み取り、自分の技を最も善く活かす道(理法)を目指すのが武道の思想に合致します。

 是非とも、増田道場の門下生には、拓心武術で言うところの「技能」が重要だという〈認識〉をもっていただきたいと思います。一言で言えば、「攻撃と防御を表裏一体として修練する」ことです。しかし、この「表裏一体」という意味が理解できないかもしれません。 私のいう「表裏一体」とは、より効果的な攻撃技はより効果的な防御技と同時に誕生する、という原理のことです。言い換えれば、より善い攻撃に内在する「原理」は、そのまま自分を護るための「原理」を知るための理法(道)となると言うことです。つまり、攻撃することと護ること、この両方の原理は互いに相生じたものなのです。その根本を理解できなければ、自己をより善く活かし、自己をより善く進化させることはできないでしょう。

【不敗の境地】

 先述した「攻撃と防御を表裏一体」として修練を行うには、組手修練に対し「有効打という認識・視点」がなければ成し得ないと思います。現在のような、相手より手数、ダメージを与えれば良いという視点、そして、技を当てない、また顔面を含めた急所を打たないという組手修練では認識が困難です。しかしながら、絶対に不可能なわけではありません。 しかし、それを可能とするには、厚い壁があるのも事実です。そして、その壁の本質を多くの人が理解していない。しかし、その壁を自覚し、乗り越えなければ、極めて不明瞭な心理的反応に弄ばれる人間を多く作り出し続けるでしょう。
もう一つ述べれば、「攻撃は最大の防御なり」は、日本人(他の民族にもみられる)に好まれる価値観だと思います。私は、その価値観を全否定はしませんが、ケースバイケースに改善しなければ、良くないと考えています。また、その価値観では不敗の境地には立てないでしょう。

 なぜなら、武術では「攻撃は最大の防御なり」の思想が生きるかもしれません。またスポーツでもそのように教えるようです。しかしながら、私なら「防御の心は攻撃の心と一致する」と教えます。さらに言えば、武道の境地においては不敗を目指すことが重要なのです。ただし、決して不敗の人間を育成するのではなく、敗けを恐れず、敗けの経験からそれを乗り越える知恵を生み出す人間の育成が武道の目的です。少なくとも私が考える武道修練とはそのようなものです。補足すれば、矛盾すると思うかもしれませんが、武術の目標は何が何でも勝つことかもしれません。しかし、私が考える武道の目指すものは不敗の境地なのです。要するに、武道とは、相手との生死を賭けた戦いを乗り越え、そこに新たな境地を切り拓くものなのです。(2022年7月2日)

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