心を高め身体を拓く空手

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拓心武術の目指すこと〜拓心武道学校・宣誓書

拓心武術の目指すこと〜拓心武道学校・宣誓書

 

【心身一如を目指す修行〜自己の心身を最も善く活かす道】
 

 拓心武術の修練は頭と身体をつなぐ回路を活性化する効用がある。その修練方法は痛みや苦しさに耐えることに価値を置いた前時代的な武術修練のあり方とは異なる。もちろん拓心武術は修練の一部である鍛錬稽古においては痛みや苦しさを体験することもある。また、頭と体を繋ぐ回路を増やそうと思えば、厳しい修練を必要とする。しかしながら、痛みや苦しみとは、自己のより善い活かし方を知らせてくれる信号や契機とするという原則が基本である。痛みや苦しみを何か特別な価値があるとして絶対視することは良くない。本当の道を見えなくするからだ。本当の道とは拓心武術の理念でいうところの天地自然の理法との一体化、そして心身一如を目指す修行だと言っても良い。言い換えれば、「自己の心身を最も善く活かす道」である。また、その道の力によって頭と身体を繋ぐ回路が活性化する。

【お金を出しても買えないもの】
 

 「自己の心身を最も善く活かす道」とは、喜びであり、楽しみであり、そして感謝を生み出すプロセスでもある。私は拓心武術により、老若男女に喜びと楽しみ、そして感謝をもたらしたい。ここでいう感謝は何も特別なことを成し遂げた時のみに思うことではない。
私は、普段の生活においても、心と身体があることに対する感謝を知ることが大事だと思っている。また、頭と身体、そして心を活かすことに対し喜びと楽しみを見出す武道哲学を生み出したい。そのためには、これまでの武に対する価値観とは全く別次元の新しい価値を提示する。その新しい価値が「自己の心身を最も善く活かす道の会得」ということである。

 その新しい価値とは、お金を出しても買えないものだ。なぜなら、その価値の本質は、貨幣と交換できないもの、すなわち自己の心身のみならず他の心身との深い対話を通じて会得されるものだからである。そのような価値は貨幣では手にできない。そして本来、人間にとって貨幣よりも価値のあるものなのである。
拓心武術は、その武道哲学・思想を伝えるため、TS方式組手法を手段とする。その組手法の目標は競技に勝つことではない。拓心武術における勝利とは「制心」「制機」「制力」が一体化した動きの実現である。

【拓心武術の修練目標・キーコンセプト(鍵概念)】

 先述した「制心」「制機」「制力」とは拓心武術の修練目標・キーコンセプト(鍵概念)である。その中心は「制機」である。簡単に意味を述べれば以下のようになる。
まず「制機」、すなわち「機を捉え、かつ活かす」という目標は、目に見えない「縁(繋がり・関係性)」を活かす道を知ることである。つまり、目に見える速さや頭で考える速さに囚われた目で技を見るのではなく、道によって技を見ることだと言っても良い。道によって技を見るとは、組手修練の際、頭で考えて動くことではない。また身体の反応に引きずられて動くのでもない。それは頭と身体と技の理法を繋ぎ、かつ一体化させて判断し、かつ動くことである。次に「制力」という目標は、技の理法を生かして力を使うことである。言い換えれば「技・力」を身体や自我を基に使うのではなく、身体の理法に適うように使うことだと言ってもよい。最後に「制心」とは、自己の身体に打撃をもらうという状況において、感情面や自我に判断や動きがが引きずられないよう、自我の抑制と制御の必要性を伝えている。すなわち、心(意識)が揺れ動く状況において自己の使う技を理法に適うようにするためには、まずもって自我を抑制し、制御しなければならないのだ。そのことを拓心武術では「制心」という言葉で伝える。私は先達が伝えた「無心」という概念は、制心の先の地平にある無意識の領域に蓄積された智慧を活かすということだと思っている。だが「制心」のためには、自我を抑制するのみならず、「制機」と「制力」という目標が認識されていなければ困難だと考えている。さらに言えば、「無心」とは何も考えていない状態ではなく、「制心」「制機」「制力」という目標が意識され実行されている状態のことだと考えている。言い換えれば、「自己の心身を最も善く生かす道」に到達した状態が「無心」という境地なのだ。繰り返すが、以上の3つの修練目標を掲げる意義、そして目的は、「自己の心身を最も善く活かす道」を目指すことである。

【拓心武術の生活面における効用】
 

 拓心武術の修行法としての効用を先述した。ここで拓心武術の修練の生活面における効用という点で述べてみたい。拓心武術の組手修練の効用は、少年のみならず老年の頭と身体を繋ぐ機能を活性化するに違いない。その機能は、レベルが上がれば、護身術としての実用性の獲得ともなるだろう。また感情面を適度に刺激、かつ抑制的に使うこことで、アドレナリン分泌の機能が促進される。また、胴部、腕部、脚部、手足の指先まで、全ての部位を意識し使うことで、全身の血流が良くなる。また打撃技の衝撃は骨も強くするだろう。さらに格闘技術と技能の獲得のためには、頭と身体、心(意識)を同時に使う組手修練を長時間行わなければ身につかない。しかしながら、相手を打撃で打ち負かすことを目的とするような修練を長時間行おうと思えば、身体に危害が及ぶ可能性が高い。しかし防具を用い、安全性を高めたTS方式の組手法なら長期、長時間にわたる修練を可能とする。また、一部の専門家しか為し得ないような武術的な心身の「読み取り」「読み合い」の能力の向上、会得の道をより多くの人に拓いていく。

 長期、長時間の組手修練は安全性が確保されてこそ可能となる。また長時間の高度な組手修練はエンドロフインが分泌されて、生きる活力を生み出す効用があるかもしれない。しかし、問題点があるとすれば、考え方(思想)への悪影響である。つまり、打撃系格闘技の訓練は、技能や理法を意識せず、身体的な持久力や打たれ強さ、そして根性が最も大事だ、というような考え方に傾きやすくなる。そのような考え方、価値観は、人間の精神を偏向させ、いつまでも他との対立から逃れられないだろう。

 一方、拓心武術が目指す考え方は「自己の心身を最も善く活かす道の会得」という価値の獲得を志向するものでなかればならない。その価値と考え方(思想)は、さまざまな個のあり方、人生に貢献すると思っている。また、拓心武術は若い人達のみならず、70歳を超える人達も行うことができる修練である。もちろん、ある程度の筋力が必要である。しかしながら、拓心武術の目標が「自己の心身を最も善く活かす道」ならば、老人なら老人なりに、若い人なら若い人なりに道がある。ただし、始めは若い人とは別の修練法が必要かもしれない。その具体的な方法はここでは記さないが、防具を使い安全性を確保し、かつ「制心」「制機」「制力」を目標とする修行は何歳でも実施できるようにするのが究極の理想である。

【拓心武術は相対的な強さを目指さない】

 補足すれば、拓心武術は相対的な強さを目指さない。よって相手を力で圧倒したり、打ち負かしたりすることを目標としない。もちろん相対的な強さが悪いわけではない。そのような強さも必要である。しかしながら、繰り返すが、拓心武術とは「自己の心身を最も善く活かす道を知る」という目標を目指し修練を続ける手段なのだ。
その手段と思想には、「人は永遠に道に到達できない」ということを含意している。おそらく、一部の卓越した能力を有する人達には、道を会得した、到達できたという瞬間があるのかもしれない。しかし、そう思った途端に眼前から道はなくなるものなのだ。なぜなら、道とは「活かし続ける働き」という動体(動き続けているもの)だからである。ゆえに、道とは手にした瞬間に手から離れる。また、見えたと思えば、すぐに眼前からなくなるものだ。言い換えれば、そう理解することで道を求め続けることができるのだ。また、「求め続けるという思い(祈り)」の湧出こそが最も貴重なものであり、道に近い位相である。

 人間社会における、地位や財力などの相対的価値や評価は、人の欲望を刺激し、自我の充足と拡大を目指す生き方である。そのような生き方によって人類は発展してきたのであろう。しかしながら、すでに人類の進化はそのような価値を目指す生き方を修正しなければならない時期に来ている。と私は思う。
一方、人間形成とは自他の関係性と自我の変数によって成される事柄だと思う。また本質的に相対的な事柄である価値が人間の自我(エゴ)によって絶対化され、同時に膨張していき、暴発することがある。そして、その暴発が人を不幸に陥れる。しかし、その暴発の原因を生み出す基盤は、大衆(マス)が相対的な価値を絶対化することに同意したからなのだ。本来、相対的価値は多様、かつ流動的な者であると思う。もし、私の見立てが正しければ、その価値を絶対化するのは、その裏側に特定の自我(エゴ)が働いている証拠だと言っても良い。
拓心武術の修練は、頭(意識)を使う相対的な修錬を行いながら、頭と身体を繋げ、それを活かすために理法(道)を目標とする。また修練においては相対的な評価を行うこともあるが、その評価自体が目的ではない。そのことを繰り返し述べるのは、あくまで目的は一人ひとりの能力・機能の向上だと伝えたいからである。

【拓心武術の修練の先には】

 ゆえに拓心武術の修練の先には、相対的な修錬を行いながら、かつ理法(道)という目に見えないものを目指すこと。同時に自己を活かすという高い理想がある。また、拓心武術の修練は、自己のみならず他を生かす道(理法)を生み出す道だと言っても良い。断っておくが、ここでいう他とは、組手修練の相手のみではない。自分という自我から見れば、自己の身体も他者である。また自己を取り巻く自然、また道具も他である。言い換えれば、自己とは自我のことではない。他を内包し、自我を変数として世界を生み出している者が本当の自己なのだ、と私は思う。ゆえに拓心武術の修練の先には、拓心武道という一人ひとりが自我を抑制し、より善く活かす拓心武道を想定している。

【自他の協働】

 補足すれば、自我という心を知るには身体が必要であり、身体との協働が必要なのだ。逆に言えば、身体を知るには心(自我)との協働が必要だとも言える。その協働には言葉が媒介として必要なのだ。先達の道元禅師は「不立文字」という。また慧能禅師は「以心伝心」という。しかしながら行為によって伝えるだけでも駄目なのではないか。私はそう思う。言葉を媒介として心と身体との繋がりを理解するからこそ、その重要性を多くの人に伝えることができる。心と身体の繋がりを理解したものの言葉は自己のあり方を変える。さらに、そのことを多くの人に正しく伝えることができて、初めて道を知ったと言えるのではないだろうか。

 本文は拓心武道学校の宣誓書である。私は「同行人」を集めるために言葉を用いてその効用、鍵概念、目標、思想を書き記した。願わくば、同行人と共に、新たな道を拓きたい。そして武道に新しい価値を付与し、その根本にある叡智を湧出させ、自己の人生のみならず、何かに迷い、不安を感じる人達に伝えたい。(増田 章)

 
 

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