ブログ「増田 章の身体で考える」より/2023年8月15日更新
日記
4月下旬から脚に菌が繁殖して、高熱が出た。初め、コロナ感染の疑いがあるとか、担当医がいないとかで、多くの病院から診察を断られた。ようやく辿り着いた杏林大学病院で緊急入院となった。それから2週間、抗菌剤を点滴投与し続けた。それが1日6時間、2週間続いた。
血液検査の結果、炎症の反応がほぼ無くなった(完全ではない)ので退院した。だが、強い抗菌剤を1日3回、2週間飲み続けた。また、患部が腫れ、熱があり、強い痛みがあったので、1日中脚を冷やし続けなければならなかった。1ヶ月ほど経って、ようやく杖なしで歩けるようになった。だが、少し歩くと再び患部が腫れた。そして痛みが出る。当然、私は患部側の足を庇い、歩行が正常では無くなった。その結果、左足の膝に痛みが出てきた。私の左足は半月板の損傷があるので、膝の痛みが酷くなった。さらには右足を動かせなかった関係で、右足の変形性膝関節症が悪化した。
私は、入院していた時から、上半身が衰えるのを避けるため、腕立てを続けていたが、自宅でも腕立て伏せを続けた。下半身も衰えると思ったので、四股立ちで1~2分間静止した状態を保つ、筋力トレーニングを行なった。これはアイソメトリックス・トレーニングといっても良いだろう。筋力低下を防がなければ、2ヶ月後に控えているヨーロッパで行えわれる空手合宿への参加が困難だと思ったからだ。
なんとか、渡欧の時までには歩けるようになったが、両膝、特に右足の損傷は酷かった。実は渡欧の1週間前まで、三戦立ちでの基本稽古すら、痛みで困難だった。ギリギリ、我慢できる痛みのレベルまで回復したので渡欧した。本当に大変な状況だった。おそらく、私がそんな状態だったとは誰もわからなかったに違いない。私は我慢できない状態の場合は人と合わない。平たく言えば、人を遠ざける。自分の状況を説明するのが面倒だからだ。しかし、チームで仕事をする場合、そんなことが許されない。ゆえに、体調管理が最も大事だと思っている。幸いにも周りの仲間が助けてくれたので、なんとか頑張れた。心から仲間に感謝したい。
今後、私の基本は体調管理である。そして、情熱を保ち、アイディアを枯渇させないように、また判断力が衰えないようにしたい。しかし、アイディアの種は現場にあることが多い。ゆえに、現場を見ることが重要だと思っている。
アマチュアキックボクシングの試合で貴重な情報を得た
7月の渡欧の際も、さまざまなことを感じ、アイディアも得た。だが、それを皆にストレートに伝えることは慎重にしないといけない。なぜなら、私の感覚と現場の感覚とは異なる可能性が高いからだ。伝え方を間違うと誤解を与えかねない。その気遣いが大変である(私の性格には合わない)。
そう思いながら、先日、”ライズ”が主催するアマチュアキックボクシングの試合を見に行った時のことを書いておきたい。その日は、午後に審査会があり、僅かな時間の見学だった。だが、私はアマチュアキックボクシンの試合で貴重な情報を得た。
まず、そこで見たアマチュアボクシングの試合方法は、私の道場で実施する組手法(TS式組手法)と類似性があったからだ。また、関係者の話を聞き、私の組手修練法に関する意を強くした。
ポイントを大まかに述べれば二つだ。その一つ目は「初心者の試合の際は、パンチによる顔面攻撃を無くして、思い切り数多くの突きや蹴りを相手に繰り出せるようにすること」二つ目は、「突き蹴りの対戦を経験を経た第二段階では、攻撃をポイント制にして、技の防御技術を意識させること」にある。さらに、第三段階以降は、ラウンド数を増やしたり、攻撃に技によるダメージを含めた試合法に移行するというシステムになっている。
このことは、私が空手で採用した方が良いと長年構想してきた考えと同じである。だが、現実の空手は、初心者レベルの試合法を繰り返している。私は、その試合法が無意味だとは思わないが、空手の原点が武術であり、かつ格闘技であると認識するならば、そのレベルにとどまることは、空手の本義を喪失した姿だと思っている。また、空手道修練の可能性を遺棄した姿だと思っている。私は、空手のみならず個々人の心身には的確に鍛錬すれば、多くの可能性があると思っている。
ただし、ここで断っておきたいは、ここでいう可能性の追求の先にあるのは、個々人の名誉の獲得ではないということ。それは個々人が自己の心身を活用し、人間の有する能力を可能な限り引き出し、非修練者が到達できない、スキルを獲得することにある。さらに言えば、そのスキル獲得のプロセスにより、他のジャンルの達人たちが到達した境地と同じ境地を知ることにある。私は、その境地は無限であり、かつ限界がないと考えている。また、限界がなくなることが自他一体となることなのだと考えている。
私の理想に近づくためには、技を用いて戦う状況においては、技の防御を重く捉え、かつ最善の攻撃を追求するという意識が必要だ。その意識を攻防一致の意識と仮に名付ければ、この攻防一致の意識を組手修練の基本としなければ、組手修練が単なる初心者の体力、気力を発揮させるため手段の域を出ない。そして技能上達の基盤を構築する手段とはなり得ないだろう。
私が最期にやり遂げたい仕事は、空手の修練において、心身と技の究極を追求する道筋を示し、残すことだ。だが、現在の空手修練のあり方では、そこには程遠い。