心を高め身体を拓く空手

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日本語)ヒッティングスポーツ構想(HITTING SPORTS CONCEPT)  

HITTING SPORTS構想 

1)多様な格闘競技をヒッティング・スポーツとして結合する

私はキックボクシングと極真空手、また、他の多様な打撃技主体の格闘競技をヒッティング・スポーツとして結合することを提案したい。その理由は、極真空手のみならず、キックボクシング、など打撃系格闘技の社会的評価をより高いものとするためである。

補足を加えれば、日本においては、武道、格闘技としての柔道の社会的認知度が国技的なのに比べ、極真空手の社会的評価は柔道に遠く及ばない。だが、極真空手の世界的な認知度は柔道に勝るとも劣らないほど高い。にもかかわらず、その社会的評価は比較にもならないのはなぜだろうか。その理由を大まかに考察してみたい。

実は柔道の歴史はさほど古くはない。やく140~150年ほどだ。しかしながら、柔道が一つの団体に統合されて活動していること。途中、創始者の嘉納治五郎が柔道を西洋のスポーツと結合させたことが大きい。そのような普及戦略を持って、広く世界に柔道理念とその修練方法の有用性を知らしめたのである。
他方、空手は柔道が創始された頃、すでに沖縄から日本本土に知られていた。しかしながら、沖縄の空手は琉球独自の武術であり、嘉納治五郎の構想した柔道とは、その創設の理念、普及目的が異なっていた。このことの是非は別だ、ただし、こと普及という点では、柔道に比べ大きく差がついた。

その原因として、空手は柔道のような統一的普及が困難だったことが挙げられる。要するに、柔道は嘉納治五郎が創設したのに対し、空手は多様な流派に分かれている。一方、空手が柔道に勝るとも劣らない世界的に普及している理由は、空手に魅力があるからなのだろうか。ここでは、そのことに関する論究はしない。また、キックボクシングも空手同様、世界的な普及度を誇るが、類似した点の多いボクシング競技と比較して、社会的評価が低いと言わざるを得ない。その理由の第一に、キックボクシングが空手同様に幾つもの団体に分割して活動していて、一つに統合されていないことが挙げられる。また、ボクシングはプロ・ボクシングとはルールの若干異なるアマチュアボクシング展開し、アマチュアボクシングはオリンピック競技の一つとなっている。つまり、ボクシングはプロフェッショナル格闘技としての立場のみならず、アマチュアスポーツとしての立場を有し、オリンピック競技となることで社会的評価が高い。ただし、プロ・ボクシングは、決してアマチュア・ボクシングの競技者をプロの競技者育成の基盤としているのではない。しかしながら、ボクシングがアマチュアスポーツとしてのオリンピック競技の立場を得ていることは、キックボクシングと比較して、高い社会的地位を得ている。補足すれば、オリンピック競技としてのボクシングは、相手をノックアウトすることではなく、競技者のボクシングスキルの高低を重視したジャッジ方法を採用し、スポーツ化している。そのように試合ルールをプロ・ボクシング競技とは若干改良し、スポーツ的にすることで、オリンピック競技の一つとした。また、ボクシングをノックアウトを目標に長いラウンドを戦わせる過酷なプロボクシングとは異なる、青少年の教育に適したものとした。

他方、極真空手とキックボクシングはスポーツとしての立場を否定するかのように、武道や格闘技という”ラベル”を用いて社会的立場を作ろうとしてきた。もちろん、キックボクシング愛好者の中には、キックボクシングをスポーツとして普及しようとする者もいる。しかしながら、その努力がいまだ実らない。その理由については、これ以上の考察をするのは本論の趣旨ではないので、別の機会にしたい。要するに、私は極真空手とキックボクシングが広く社会に評価されるためには、スポーツとしての確立が必要だと考えている。
断っておくが、現在、キックボクシングに関しては、スポーツとしてのキックボクシングを普及しようとする団体がある。私の構想は、極真空手とキックボクシングなどの打撃技を主とする格闘技を「ヒッテイング」という格闘技スポーツに結合することである。そうして、武道としての格闘技を伝統的なものとして、格闘技スポーツと併立させて普及することを勧めたい。そのような普及戦略を実行することで、格闘技の社会的評価が変わると考えるからである。具体的には、格闘技競技の社会的有益性をより明確にして、社会に認知させたい。そのために、キックボクシングや極真空手、また他の格闘競技を統括するための理念を明確化する。そして、より公正な競技基盤を作る。
補足を加えれば、まず格闘競技の見せ物的な価値を全面に出すのではなく、人間教育としての効用を理念として明確にする。その理念を中心にして、その具現化を目指す、誰もが納得できる競技基盤を作るのである。もし、私の構想する競技基盤ができれば、多様(異種)な格闘技愛好者が仲間として交流することが可能となる。同時に、多様な格闘技スキルが融合され、スキルの向上とともに競技レベルの発展と進化が期待できるに違いない。

2)異種格闘技の交流の好例

ここで、私は多様(異種)な格闘技の交流の好例として、柔道を上げたい。柔道は創始者の嘉納治五郎が多様な日本柔術の技を融合して創始した。さらに、柔道は西洋のレスリングなどの技も取り入れ、発展、進化した経緯がある。そのことは柔道の創始者、嘉納治五郎が多様な柔術家のみならずレスラーや空手家との交流を実践してきたからであろう。
柔道競技は、スポーツとして競技ルールの改変が繰り返されている。そのことに対する異論があるかもしれないが、私は柔道がスポーツと融合し、普及発展の手段とした以上は、必要なことだと考えている。その一方、武術性や武道としての伝統を護ることも必要だと思っている。実は、私もかつては柔道愛好者の一人であり、柔道の発展と継承を望んでいる者の一人だ。その上で、僭越ながら、武道としての柔道、そしてスポーツとしての柔道の併立には賛成の立場である。ただし、その武道性とスポーツ性を明確にし、かつ融合部分の修正の必要があるかもしれない。
他方、極真空手も、その創始者である大山倍達は、柔道の嘉納治五郎同様、多様な武術、格闘技、空手を学び、その技を融合を試みた。さらにはムエタイとの交流も実践した。そのことによって、極真空手は、伝統的な空手の技に加え、他の格闘技の技を融合して、他の空手とは異なる、独自の発展と進化を遂げた。
少し脱線するが、かつて我が国において一斉を風靡した、K1という格闘技イベントがあった。K1とは、石井和義氏という空手家が、キックボクシングと空手などの競技者を一つの舞台で戦わせるための格闘技イベントである。「K1」は、多様な格闘技者が競い易い競技ルールを作って戦わせた。そのことは、観客に戦いがわかりやすかった。さらに、「K1」には、キックボクシングのみならず、極真空手の有力な競技者が参加した。そのことによって、多様な格闘技愛好者が注目した。その結果、極真空手の認知度が飛躍的に高まった。ただし、極真空手の競技者がK1に参加したことで、当時の極真空手が標榜していた地上最強という看板とその自己評価に対する疑義が高まったのも事実である。

私は石井和義氏が考案した、「K1」の設立は素晴らしいアイディアだったと思う。周知のように石井氏の構想は、格闘技ファンを開拓し、大成功した。だが、持続的な発展ができなかった。 巷では、K1衰退の原因を競技者への報酬が高騰して経営が困難になった、などと言っているが、その原因をここでは論究しない。ただし、私はK1が持続できなかったのは、他のメジャースポーツが有する、アマチュアの基盤、すなわち愛好者の裾野を広げることができなかったこと。それと同時に広くスポンサーを獲得できなかったことが原因だと考えている。それゆえ、再び、かつてのK1のようなプロフェッショナル・格闘競技イベントを展開するなら、まずは愛好者の裾野を広げる必要があると考えている。そのためにはスポーツとしての高い理念と選手育成の仕組みが必要だと思う。

その理由は、高い理念と選手育成の基盤がなければ、一時的な成功はあっても、持続的かつ長期的な維持はできないと考えるからだ。このことは、プロボクシングも同じだと思う。
振り返ってみれば、K1人気は、極真空手、そしてプロレスにおける異種格闘技路線の隆盛の延長線上にあったように思う。そして、「本当に強い者を見たい」という時代精神の要請にうまく乗った誕生と発展だったのだろう、と私は見ている。その成功例と没落例を見て、私が直感するのは、プロフェッショナル競技を創設するなら、一時的な刺激ではなく、共感を永続させるための高い理念の確立が必要条件だ。そして十分条件としての愛好者と選手育成の基盤の確立である。

3)ヒッティングスポーツとは

話を戻して、これまで私は、各種武術や格闘技の誕生と発展の歴史を見ると同時に他のメジャースポーツを発展形態を考究してきた。そうして導き出した構想が「HITTING SPORTS」である。

ヒッティングスポーツとは、新しい格闘技スポーツの名称である。その内容は、キックボクシングと極真空手、また、他の格闘競技の愛好者達を交流させる、プラットフォーム的基盤でもある。さらに、そのプラットフォームから、格闘技に対する共感の輪を広げ、その愛好者のみならず、観客の心を繋げたい。だが、そのフラットフォームの形成には、高い理念と目的、公正なルールが必要となる。問題点は、各武道団体や格闘技団体が各々の伝統的考えを護りたいと考える点にある。私は、各団体がその伝統を護りたいなら、それは個別に行えば良いと思っている。

私の構想は、各団体のあり方をとやかくいうことではない。ただ、普遍的かつ高い理念とルールによって、多様な格闘競技に架橋し、愛好者の交流を可能とすることだ。そのことによって、競技スキルが向上し、愛好者の数が増加する。そして、その競技スキルが誰の目から見ても、高く、かつ競技者の人間性が高ければ、先発のメジャースポーツに劣らず、社会的に有用な文化的コンテンツとなると確信しているのだ。それを実現するには、参加者が、理念と目的、そしてルールを合意しなければならない。繰り返すようだが、私のいう架橋によって、多様な格闘技の技が融合され、さらに高いレベルの技が誕生するだろう。同様に、民族、宗教、言語などの違いを乗り越え、人間として深い部分で、その共通点を見出し、皮相的な違いを受け入れることができるようになるだろう。

4)「ヒッティングスポーツ」の設立目的と理念

以下に、私が考える「ヒッティングスポーツ」の設立目的と理念について述べたい。現在、格闘技はプロのエンターテインメント性やスペクタクル性を売りに社会に認知されていると私は見る。しかしながら、各種格闘技のプロフェショナル競技の運営基盤はどれも脆弱だ。
その理由の一つには、社会貢献を掲げるスポンサーにとって、格闘技はイメージ的に宣伝効果がないからだろう。また、プロフェッショナル格闘技のイベントの基盤となるファンと格闘技を愛好する者の価値観に、若干の価値観の相違があるからだ。私のいう相違点とは、見るだけのファンは、格闘技者の強さ、あるいは戦い(競技)による強い刺激を求めている。他方、自らも何らかの格闘技をする者としてのファンは、プロの選手に自己を投影、つまりファイターの物語性に共感を求めている。そして格闘技イベントを応援するスポンサーは、ただ観客動員、また視聴率などの目に見える形での数に興味があるに違いない。

私の直感的な私見だが、格闘競技に永続的な共感を得てもらうためには「仕掛け」と「構造」が必要だ。私の言う「仕掛け」と「構造」とは、単なる勝敗ではなく、競技者の高いスキルの発揮とメンタルタフネス、さらに高次の人間性を見せることための「仕掛け」と「構造」と言っても良い。そのような「仕掛け」と「構造」を作ることで、「見る者」を増加させるのみならず、「する者」を増加させる基盤ができるのだ。

5)格闘競技の理念を、より普遍的、かつ高次のものとする

さらに、ここで私が考える格闘競技の存在価値の再定義を試みたい。まず、身体的にも心理的にも暴力的になりうる、格闘競技を行う目的と意義とは何か?
それは、試合に勝って金銭を得ることだろうか。また有名になることだろうか。そのような目的をプロフェッショナル競技者が有していることは否定されることではない。しかしながら、そのような目的のみを有する者だけにアプローチするなら、持続的な人材の確保が困難になる可能性が高いと考えている。なぜなら、高度なスキルを有し、リスクを背負って競い合うプロフェッショナル競技者養成の基盤を確立するためには、競技の社会的価値を「見る」コンテンツとしてのみならず、「する」コンテンツとして、より広い層の愛好者を獲得することが必要だと考えるからだ。

私は、質の高いスキルを有する技能者集団を確保するには、より裾野を広げ、より多様な人材を確保できる仕組みを作らなければならない、と考えている。そのためには、プロフェッショナル競技の基盤となるアマチュア競技の理念に普遍性を持たせること。また、より人類社会の発展と進歩に対し、有用性をアピールする必要がある。

その具体的方法として、まずは格闘競技の理念を、より普遍的、かつ高次のものとするのだ。要するに、格闘競技が単に暴力的、かつ刺激的な行為ではなく、個々人の高度な技能を開発する行為だと認識させなければならない。さらには、個々の人生を充実させ、より豊かにするための行為だと認識させる努力が重要だ。

私が先述した普遍的、かつ高次の理念とは、格闘技や格闘競技を、一時的な勝利を喜ぶためのもののみならず、長期的に見て、個々人に有用な哲学を中心にすると言うことである。その哲学について詳細に述べることは別の機会としたいが、端的に述べておけば、青少年の心身の強化のみならず、シニア世代における健康寿命の増進という目的に合致した哲学を掲げることである。

私は、人生は長期戦だと思う。そして多くの人の人生は敗者復活戦でもあると考えている。つまり、失敗や敗けることから学び、それを活かしていく。そして敗けなくなること。そして最終的に勝ち、勝者となることであると思っている。その哲学のゴールには敗者はいない。勝者しかいないということを武道を通じて伝えたい。その哲学を格闘競技によって、具現化すること。また、その活動が「人類の共生」の良きモデルとなるようにするのだ。そのためには、全時代的な武術や武道という理念とは別に、スポーツというラベルを使い、新しく高い理念を掲げることが有用だと考えている。
補足を加えれば、私が考える新しい格闘スポーツの理念は、古の武道の理念を高次化した哲学だ。また、古典的な伝統武道は保存会が保存すれば良い。私は、伝統武道の保存は必要だと考えている。しかしながら、伝統的な武道を権威の形成のために使う者たちとは一線を画したい。
私は、古典的な武道も、長い年月の中で進化してきたものだと考えるからだ。そして、より重要なことは、武道の中心に存在する、武術と対峙する中で、自己の心身と生命が生かされ高まること。また修錬者一人ひとりの精神がより高次化することなのである。
もし、私の思想を理解し、了解できる者が結集すれば、武道の価値がより高まるに違いない。また、武道文化とスポーツ文化が協力し合い、より良い社会形成の一助となるはずだ。
ここで断っておきたいことがある。私は武道や格闘技の特殊性を否定したいのではないということ。ただ、多くの武道団体の理念と活動は、言葉だけのもので、やっていることは、一時的な人集めの行為にしか見えない。

6)今日の武道のあり方を見直す

このHITTING SPORTS構想の要諦は、今日の武道のあり方を見直すことも含意している。具体的には、武道の原点である武術とは何かを考え、その上で、今一度、その精神の高次化を目指すべということである。その先に、より質の高い文化の形成の道が見えてくる。また、決してスポーツ文化を否定して、武道文化の価値を唱えるのではなく、スポーツを肯定した方が良いと考えている。スポーツ文化を否定する人達の実態は、自らがスポーツ同様、あるいはそれ以下のこと行っていながら、他の文化を否定していることに気がついていない姿だと思うからだ。もし、武道家が本当にその中心である、武術性と精神性の高さを理解しているなら、否定する必要がないと思う。私なら、スポーツ文化の良さを活かして、共に手を取り、互いの価値を高めあっていく。私は、また、武道とスポーツを架橋し、互いに認め合って、高め合うことで、社会に貢献していきたい。そのような手段によって、互いの文化性がより発展し、かつ進化し、社会に有益なものとして認知されるのだ。

補足すれば、私が構想するヒッティング・スポーツとは武術をルーツとするスポーツだ。その武術について、私見を述べれば、武術とは相手を殺傷する、あるいは自己が殺傷されるという状況下において、相手を制する体術(スキル)であると同時に自己を律する心術(メンタルスキル)である。すなわち、武道とは武術を高めることと同時にそれを使用する者の精神を高める方法だと言っても良い、と私は考えている。

7)礼の精神(SPIRITS OF REI)

もう一つ、ヒッティングスポーツの独自理念について述べておきたい。ヒッティングスポーツは、武術が想定する情況に思いを馳せる。だが、相手を殺傷して勝つことを目的とするものではない。いうまでもなく、スポーツは人間を人間以下のものとして認知し、殺傷する戦いの訓練ではないからだ。しかしながら、新しい格闘競技としてのヒッティング・スポーツは、武術が想定する戦いを原点としながら、その状況下でいかに自己の精神を律し、気高さを保つことを目指す手段としたい。ゆえに、ヒッティング競技においては、勝負を決した後は、「ノーサイド」とする。但し、これはラグビー・フットボールの理念を表す言葉でもある、ヒッティングスポーツにおいても、ラグビーフットボールと同様、試合後は「ノーサイド」としたい。その上で、試合直後は、「礼(REI)]の作法を実践すること義務づけたい。その「礼(REI)」の形態は、古代、日本武士が行ったように討ち倒した相手に対する「日本式の礼法」に倣う。但し、この「礼」には、さまざまな語源がある。だが、ヒッティングスポーツにおいては、人間が踏み行うべき道の中でも最も普遍的な、生命の尊厳と個人の名誉を護るという意味を所作によって表すという意味である。換言すれば、ヒッティングスポーツにおける「礼の精神」とは、「自己が奪った敵の名誉と生命の尊厳を護る行為であり、同時に自己の名誉と生命の尊厳を護る」行為を表す精神のことだといって良い。

この精神は、日本の封建時代の為政者達の主従関係における忠孝といった、外発的に押し付けられた価値観ではなく、内発的な自己存在究極の「尊厳」、イコール「名誉」を重んじる感覚に依拠している。また、必要以上に相手から奪わない。また、奪った命は生かして使うという、日本の思想の随所に見られる思想の延長線上にある感性だ。この精神をFIHA競技における「礼の精神(SPIRITS OF REI」である。

 さらに述べれば、その「礼の精神(SPIRITS OF REI)」を顕現させるため、ヒッティングスポーツがあると言っても過言ではない。要するに、相手と高いレベルのスキルを競い合い自己の戦いのスキルを向上させる。そのこと同時に相手の戦いのスキルレベルを高める。その相互浸透的な思想の交換と高次化を目指すことがヒッティングスポーツの核にある理念である。
以上のような精神、すなわち理念の具現化を可能とする競技ルールをヒッティングスポーツでは共有する。また、その理念を具現化する競技者が増えれば、特殊な格闘競技が、より高い意義と社会的価値を持った競技、そしてスポーツと広く認識されるに違いない。

補足すれば、私が構想するヒッティングスポーツ(新しい格闘技スポーツ)は、戦うための身体的スキルと戦術的スキルへの評価をより普遍的な価値観に照らして判断しなけれならない。その点で、現在の極真空手の競技法は、普遍的な価値観に沿っていない。また、格闘競技は、戦う方法が自由になればなるほど、暴力性を喚起させる可能性がある。だが、個々の競技者がその暴力性をコントロールすることにより、その行為が崇高になると考えている。そして、その崇高さが顕現する可能性は、戦いにおいて恐怖心が高まれば高まるほど増大するだろう。そこに格闘技スポーツの価値があると思っている。要するに、個対個の激しい戦いにおいて、「礼の精神(SPIRITS OF REI」を内発的に実践しようとする境地が「人間の崇高さ」が顕現する地平であり、そのことを具現化すれば、格闘技の社会的価値が最高レベルに達すると予想する。

私は恐怖心と対峙し、それを勇敢に乗り越えようとした時、競技者の内面は「真剣さ」を増し、かつ「誠実」になると考えている。その真剣さと誠実さ、自制心と勇気が、最高レベルのスキルを発揮するための精神(理性)となる。同時に崇高な精神となるのだ。また、競技において自己を極限状態に置くことで、競技者をその内面と対峙させ、理性の高みを直観する機会とするのだ。以上のような理念が具現化されれば、その戦いに感動が生まれるのは必然である。一方、相手に勝つために、自制心を喪失し、動物のように戦う競技者には、一種の嫌悪感すら生まれるだろう。もちろん、状況においては本能的、かつ動物のように戦うことが必要だと思う。また、究極的に考えれば、動物のように本能的に戦うことに問題はないのかもしれない。しかしながら、極限的な状況下においても、決して人間性を喪失しないよう理性の力を発揮し、人間としての崇高さを発揮することを目指すことは必要だと思う。もし、そのような崇高さを発揮できたなら、たとえ死んだとしても、自己の矜持を失わない生き方となると考えている。

私は、この人間としての崇高さを競技者の内部から内発的に顕現させることを競技の究極的な目標とすることで、未だ消滅しない、人間同士の殺戮、戦争という行為を無くすという、理想・理念の実現を目指したい。そして、その理想の追求が、暴力的な格闘競技を高次化し、より多くの人に共感を与えることとなると思っている。さらに私は、この人間理性の崇高さの発揮と醸成をヒッティングスポーツの理念として活動したい。つまり、理念の具現化を目的として行われる、格闘競技をヒッティング・スポーツとして確立するのである。

 

8)スポーツの目的

少し脱線を許していただくと、スポーツの目的には人間性を解放させる役割があると言われている。同様に、私の構想するヒッティング・スポーツも人間に内包する感情的暴力性を昇華し、かつ心身を解放する効果があると考えている。ただし、感情的暴力性を昇華し、高次の理性を発揮し、理想を具現化するには、共通の理念で結合しなければならない。そして、競技者同士を同志・仲間だと認識させる必要がある。

9)ヒッティングスポーツの発展形について

ここで、ヒッティングスポーツの発展形について述べておきたい。ヒッティングスポーツの創設当初は、打撃技のみの競技方式を採用するが、現存する多様な格闘競技の利点をそのままにして、より多くの競技者が参加し易いようにしたい。そして緩やかな融合を目指したい。そのために、5種の競技方式を設定する。

繰り返すようだが、ヒッティングスポーツの基本はグローブを使った「IBMAキックボクシング」、面防具を使った「IBMA・HITTING」、「IBMA・KYOKUSHIN」の3種の競技である。
だが、この3種の競技方式の他にも、短棒を使う競技の「HITTING・STICK」や投げ技の使用を可とする「HITTING・FREESTYLE」競技も実施も視野に入れている。

なお、「HITTING・STICK」は、フィリッピン、タイ、日本、他各地域に存在する棒術、さらには刀剣術などのスキルを応用することもできる。また、「HITTING・STICK(ヒッティング・スティック)」は、道具を使うことで、そのスキルを身体的にハンディキャップを負う、身体障害者も参加することが可能となる。ヒッティングの思想を簡単に述べれば、人間は誰しも老化によって、身体的な障害が生じる。しかしならが、その障害を道具を用いることで補えるのだ。つまり、武術であれば、攻撃技の破壊力を道具の使用で補える。また、道具を用いるスキルの探求は、他者である道具との一体化を目指すことで、より深い自己との対峙を可能とする。さらに、老齢になっても競技を可能とすることができる。なぜなら、徒手の格闘技より、道具を用いるスキルが重要となるからだ。これ以上は別紙にて説明するが、IBMAが実施する、ヒッティングスポーツが、身体的に強靭な者や、若い人達のみならず、身体的に障害を有する人達や老年の人達も参加できるようにすることで、より幅広い愛好者を獲得できるようになる。そして、広く社会に益する効用があるスポーツとして認知されるだろう。そのことによって、社会的責任を自覚する政府や企業人のサポートを受けられるようになるだろう。また、「IBMA・KYOKUSHIN競技」とは、世界的に最も普及しているから他団体である極真会で実施されている競技方法を基盤にしている。だが、極真会(Kyokushinkai)は、創始者の逝去後、多くの団体に分裂し、互いに協力しあっていない状態である。私は多数に分裂した極真会(Kyokushinkai)という普及団体が再び協力するためには、その競技方法を良い意味でスポーツ的にすること。つまり、誰の目から見ても公正で納得できるものとすることであると考えている。端的には、ルールを変えるのでは無く、勝敗を決める審判方法を変えることであると考えている。だが、いきなりジャッジ方法を変えると言っても、理解しない可能性が高いので、まずは新しい審判方法を採用した競技法を示し、それを見せたいと考えている。私は、その方法を実際に体験し、目の当たりにすることで、これまでの極真会(Kyokushinkai)の競技法の重大な問題点を改善したい。もし、このことが実現すれば、世界で最も愛好者が多い空手愛好者をヒッティングスポーツのプラットホームに結集させることが可能となるかもしれない。そのような構想の実現のためには、何事にも優先して、公正な審判法(ジャッジ・システム)が必要だと思う。私は、それが確立されていなければ、高いレベルの競技者の交流は不可能だと考えている。断っておくが、私は極真会(Kyokushinkai)のみならず、各種空手や伝統的な武道の独自の哲学や修練法は各団体の裁量に任せれば良いと思う。

10)IBMA・KYOKUSHINについて

一つだけ、「IBMA・KYOKUSHIN」競技における審判法の要点を述べておきたい。
各種ヒッティングスポーツにおいては、安全性の確保と評価する対象、観点が「競技者の攻防スキル」であるということだ。また、そこが勝敗に明確に示されているということである。それらの点が不鮮明だと、観客のみならず、競技者が、何を目指して良いのかが理解できない。結果、競技者の競技スキルは高まらず、スポーツとは評価されないということである。ここでいう競技スキルが高まらないということは、異種の格闘技と戦うことを想定したとしたら、勝つ可能性が低くなるということだ。もちろん、競技方法には一長一短があるだろう。だが、それらを生かし、融合するためにも、打撃技を中心とした普遍的な要素を基盤として、5種の競技法を併存させる協会と連盟を設立するのである。また、異なる長所短所を有する競技を併立し、競技者が自由に参加できるようにする。そのようなシステムにより、競技者の体力レベルやスキル・レベル、あるいは年齢によって、競技法を変えることができる、その結果、競技者・愛好者を長く競技に参加しやすくする。以上のような仕組みは、スポーツ文化の目指す、将来の方向性であると同時に武道文化の将来の方向性とも合致するのではないかと考えている。

補足を加えれば、ヒッティングスポーツは危険な格闘競技が体力、スキルのレベル、あるいは年齢によって競技法を変えられるようにすることでもある。繰り返すが、そのようなシステムを有することで、愛好者が長く競技に参加できるようになるのだ。
さらに述べれば、私は老齢者や身体に障害がある人も格闘競技に関われるようにすることが、未来の武道、そして格闘競技のあり方として良いと考えている。

その理由は、未来の武道、そして格闘競技はスポーツ文化と結合し、多様な宗教、言語、文化を有する人達と共有し、その共生に貢献するものとするべきだと思うからである。また、個々人の精神を高める手段であると同時に、生涯にわたり、人間の心身を解放し、かつ強く保つための手段としたい。この構想の実現によって、極真空手(Kyokushinkarate)のみならずキックボクシング競技、そして空手競技が、より多くの人の理解を得ることができるだろう。そして個々の人生を豊かにすることに貢献するだろう。まずは、各国、各地域で「IHA(国際ヒッティング協会)を設立し、競技会を開催してくれる同志を求めたい。その過程で多様な格闘技団体、武道団体と繋がり、仲間となっていく。それが実現すれば、「FIHA(国際ヒッティングスポーツ協会・連盟」は最短最速で出来上がる。また、同時進行的に連盟のガバナンスを強化しつつ、才能豊かな競技者(アスリート)が誕生すれば、そのもの達を支援する企業、メディア、ファンなどの輪を広げていく。そのような構想が実現すれば、もしかすると、HITTINGスポーツをオリンピックゲームスの一つとすることも可能となるかもしれない。ただし、FIHAのゴールは決してオリンピック競技化ではない。なぜなら、HITTING構想が実現していけば、オリンピック競技とならなくても、それらに勝るとも劣らない、独立した新しいスポーツとして普及、認知されると考えているからだ。例えば、FIFAのサッカーのように。さらに補足すれば、このHITTING構想に参画することは、各種武道団体や格闘競技団体、そして愛好者の将来のあり方、生き残り戦略と合致するに違いない。

 

 

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