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「一手決め「二手決め」「三手決め」〜拓心武術の戦闘理論(相手との対峙の仕方を知る)

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相手との対峙の仕方を知る 
  

~拓心武術の戦闘理論~
 

【「一手決め」「二手決め」「三手決め」の稽古について】

 「一手決め」「二手決め」「三手決め」の稽古について述べたい。なお、この「〜決め」というのは、拓心武術の戦闘理論における概念用語であるが、「攻撃」と置き換えても良いし、また「対応(応答)」と置き換えても良い、と述べておく。

 まず初めに、拓心武術の組手修練においては、初心者に対して、「二手決め」の稽古を手始めに「三手決め」の稽古を同時に行う。なぜなら、拓心武術の組手修練による効用を、なるべく早くに得るためだ。この稽古法は、あらかじめ「相手と自分(受けと取り)」の攻撃技や防御技を決めておき(約束)、互いに技を遣り取り(交流)させる稽古である。要点は、あらかじめ技を限定するということ。そして形の模倣と原理原則の理解を旨とする組手型の稽古より、動きを早め、流れの中で、呼吸や気を合わせることを旨とする稽古であるということだ。
補足すれば、拓心武術の修練における組手型、約束組手稽古の眼目を一言で述べれば、「相手(他者)との対峙の仕方を知る」ということである。言い換えれば、「一手決め」「二手決め」「三手決め」というのは、「どのように相手と向き合い(認識)、かつ技を使うか(応答)」の訓練でもある。ゆえに、その訓練においては、他者(相手)との対峙を自己との対峙に繋げて考えなければならない。否、相手(他者)との対峙は自己との対峙と表裏一体なのである。まず以て、そのことを理解した上で「一手決め」「二手決め」「三手決め」について述べてみたい。

【「二手決め」とは】

 さて、「二手決め」とは、また、その核心は、「相手の技を認識した上で自分の技をどのように活かすか」だと言っても良い。そして、「二手決め」の約束組手・稽古法の意義は「相手の技(攻撃技)を認識した上で自分の技(攻撃技)を活かす方法を学ぶこと」である。ただし、拓心武術の組手修練では、相手の技に対し、その技を弱体化、無力化しつつ、自分の技(反撃)の効力を最大化するために防御技を使う。この防御技を相手の攻撃を単に防ぐだけの防御技とは異なるということを理解していれば上級者である。
つまり、ここでいう拓心武術における防御技は、自己の技(反撃技)の効力を最大化するための態勢作りを目的とする技なのだ。換言すれば、反撃のための技と一体化した技術でもある。
 
 ここまでが理解・了解できなければ、稽古の眼目である「自他との対峙の仕方を知る」ということの門をくぐることもできていないだろう。だが、その門をくぐることができなければ、自己を活かすことはできないと言っても良い。つまり、相手(他者)を明確に認識することが自己認識の基盤となり、かつ、その基盤によって自己を脅かし、破壊的に働きかけてくる相手(他者)との戦いにおいて、自己を活かす術が体得されるのである。
 

【正確に対応する】

 これまで少し難しく述べてきたかもしれない。だが、私は初心者へはこう伝えたい。まずは「組手は難しく考えなくても良い」ということ。そして、相手の攻撃を予測し、それに正確に対応することが基本だ、ということを。ただし、「正確に対応する」ことが重要である。ここでいう「正確に対応する」とは、戦いにおける絶対的な技術、正解の実践ではない。「技術を実行する心身の回路を作り上げるための稽古」の「物差し」のことだ。換言すれば、さまざまな局面において間髪を入れずに対応技術がイメージできたか、また、そのイメージを正確に具現化できたかという意識を持つことでもある。その意識、物差しがない稽古はただの反射神経のみの訓練、またに意味のない優越感の獲得のための稽古に堕してしまうに違いない。現代武道が実施している仕合稽古は全てそのようなレベルである。断っておくが、ここでいう心身の回路には心身の反射作用のようなものを応用(活用)している。だが、武術における心身の回路は、決して無秩序な反射ではなくて、それを活用して、新たな秩序を作るような、また新たな秩序を生み出すような技能、そして技術なのである。次に「三手決め」の稽古とは、相手の反応を積極的に誘い出して、その反応に対し技(攻撃技)を施す(仕掛ける)稽古である。その稽古の目的も「二手決め」の稽古同様、「相手の技(攻撃技)を認識した上で自分の技(攻撃技)を活かす方法を学ぶこと」の延長線上にある。
 

【「一手決め」とは何か〜究極の一手決め・心撃】

 少し脱線するが、「一手決め」「二手決め」「三手決め」の稽古を行う際の順番は、「一手決め」が1番最後である。なぜなら、その本質の理解が一番、困難だからである。初心者に理解しやすいのは、「二手決め」である。「一手決め」の稽古は「二手決め」「三手決め」の稽古を十分に行った上で、「相手の技(攻撃技)を認識した上で自分の技(攻撃技)を活かす方法」の基本を体得した者しか、その本質には辿り着けない。

では、拓心武術における「一手決め」とは何か。わかり易く言えば、相手の技に出方に左右されず、一撃で相手を仕留める(制圧する)ことである。そのような手を実現するには、相手に自己の攻撃の「起り」を感知されずに技を施す(仕掛ける)ことが重要である。また、相手が受けようがかわそうが意に介さず、全身全霊をこめて一手(一撃)を繰り出すことと思われるかもしれない。だが、その一手はまだ浅い。

 拓心武術が追求する「究極の一手決め(心撃)」は、技術的なことよりも、相手(他者)の意図がどうあっても、自己の技が道理に叶うように技を施すことである。換言すれば、自己の技を以て新たな秩序(関係性)を構築することである。ここでいう新たな秩序とは、相手を制圧とは異なり、自他を活かす境地だ。今、このことを説明することは困難だが、究極の一手決め・心撃は、拓心武術の思想だ、と心に留めておいて欲しい。

【「三手決め」と究極の「一手決め」に辿り着くまでに】

  話を戻し、繰り返せば、拓心武術・究極の「一手決め」に辿り着くまでに、まずは「二手決め」「三手決め」の稽古をある程度、体得した方が良いと考えている。なぜなら、「三手決め」の稽古を早い段階で行うことが、初心者に拓心武術の組手修練法を伝えるには効果的だと思うからだ。まずは組手法に慣れ親しんでもらう。その上で「一手決め」の理論を伝える。そうでなければ、その奥深さが伝わらないだろう。補足すれば、「二手決め」の稽古に習熟すると、さまざまな相手の一手(攻撃技・仕掛け)に対し、正確な対応をすることが如何に難しいことかが分かってくる。なぜなら、相手からの多様な攻撃を全て予測し対応することは困難だからだ。また、二手決めに囚われることは良くない。なぜなら、相手からの攻撃を制御・制圧するという組手の目的においては、相手の攻撃を予測し待つという意識のみでは、目的から逸脱してしまう恐れがあるからだ。そこで相手を制するという目的を達成するために、「三手決め」という戦術を用いる。それが相手に囮技を仕掛け、相手の手の内(相手の戦い方)を引き出しつつ、相手の技(対応・出方)を予測して対応する方法(戦術)である。むしろ、そのような戦い方の方が「二手決め」より、初心者には攻防が容易くなるだろう。また、相手を囮技に対応させることで、相手の反撃方法の選択肢が大幅に減ずる。そのことにより、相手の攻撃技(反撃技)の予測がし易くなる。繰り返すが、そのような戦術(戦法)が「三手決め」である。ここで「三手決め」を異なる視点から述べたい。例えば、相手の考えていることや戦い方がわからない場合、その予測は困難だろう。だが、何らかの技(行為)を囮に使い、その技に対する相手の出方(対応)によって、相手の闘い方、意図を知った上であれば、その予測と対応が若干容易くなることがわかる。

まとめれば、「二手決め」で相手の攻撃の仕方と自己の対応の技術を得ること。すなわち「二手決め」による防御技と攻撃技の使い方の基本を身につけること。その上で「三手決め」の稽古を行い、基本をより積極的に使う経験を積む。そのような稽古法なら、短時間で攻防の技能を見につけるための基盤、すなわち心身の回路が出来上がる。ただし、繰り返すが、それらの稽古は全て「より正確に」ということを指標にして行う必要がある。その指標があるからこそ、先述した「技術を実行する心身の回路」が出来上がる。

【たとえ武術の修練であっても、人間を活かす道理に達する】

 最後に、我が門下生に伝えたい。拓心武術の組手修練法をより効果的なものにするためには、徒手格闘技としての攻防の技術を学ぶというより、戦いのための心身の回路の存在を理解することを了解しなければ、その構築・創造はできない。また武術修練であっても究極は、「自然と人間と物(道具・手段)の間にある関係性とその関係性により構築された構造の中においてある」ということを理解してほしい。もし、そのことを理解し真剣に向き合えば、たとえ武術の修練であっても、人間を活かす道理に達する、と私は考えてる。だが、そのことを究めようと思えば、永遠に修練・稽古を続けなければならなくなる。なぜなら、修錬・稽古を通じ、自己を活かすには、絶えず原理原則、そして原点を見据える覚悟・意識が必要であると同時に、絶えず自己認識の更新が必要になるからだ。さらに述べれば、どんなに伝統的な事柄でも、時間が経てば変質している、と私は考えている。しかし同時に変わらないものもあるかもしれないとも思っている。それゆえ、変化するものと同時に変化しないものを探究し、古(いにしえ)と現在を結ぶために、原理原則の探究が必要欠くべからざる修練だと考えている。だが、古来のものを正確に保存するという行為も重要だが、形だけを追い求めれば、返って原理原則の体得からは遠ざかるだろう。

 本来、形の保存と原理原則の体得とは、本来同じでなければならないと思う。しかしながら、多くの形の保存は原理原則から逸脱していると直観する。私は、原理原則とは弛まぬ変化の過程において、自己を活かし続ける技能とともにあると思っている。本質的に技能とは、それを有する個体、一代限りのものである。それゆえ、それを継承者を育成するシステムとして型(形)稽古がある。だが、その継承者が技術の片鱗を継承するのみで、技能を継承していないところに武道界の問題点がある。その責任は、大衆という視点が技能を判断できないからであろう。また、これまで命のやり取りを本旨とする武術・武道においては、技能を正確に判断する手立て(データベースとそれを分析する能力)がなかったからだろう。
私は、命のやり取りを想定・意識する日本武道の伝統とは何か、を探求することは重要だと考えている。だが、まず以て武術の本質を意識しつつ「相手の技(攻撃技)をより正確に認識できるならば、必ず自分の技(攻撃技)を活かす道がある」ということをより多くの人に伝えたい。なぜなら、私は日本武道の系譜をより良く継承し、かつ活かす道を追求したいからだ。また、それは拓心武術の存在意義であり、思想(拓心道)でもある。

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