心を高め身体を拓く空手

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悟りを形にする〜拓心武道論

悟りを形にする〜拓心武道論

道場稽古の基本原則

 私の主宰する空手道場では、白帯から有段者までの幅広い力量の道場生が一緒に行う一般稽古では、まずは基本技の稽古、そして極真空手の伝統型の習得が重要です。また、それ以上に重要なのが、組手型と組手の稽古です。ただし、初心者に対しては、修練項目が多く、習得に大変な労力と時間を要します。よって、組手型の稽古は、必修組手型を設定し数少なくしています。それら必修組手型の稽古は組手稽古を行う際、最低限、必要な項目です。しかしながら、黒帯になった後は、さらに深い修行をしていきます。
 さて、初めて組手稽古を行った時のことを思いだしてください。おそらく、ほとんどの人が相手の攻撃技に戸惑い、また上級者の攻撃技の多様さに恐怖を覚えたに違いありません。そんな時、体力のあるものは「攻撃が最大の防御なり」とばかりに自分の技を出す。あるいは、体力に自信がないものは、適当に組手をやり過ごしたてはいなかったでしょうか。
 一方、少し組手稽古に慣れた時、組手が組手に慣れていない者が相手の場合、自分の技を何も考えず、自分勝手に繰り出していたことがあったのではないでしょうか。そのような組手の仕方、稽古態度は全て良くありません。これまで、私にも同様の態度があったかも知れません。しかし、そのような態度は、私が最も忌み嫌うものです。そのような態度、考え方を持ち続ける者はいつか敗れ、そして上達もないと思うからです。また、相手の攻撃技に場当たり的に対応したりすることもよくありません。さらに言えば、相手攻撃を無視するかのように自己の攻撃技(仕掛け技)のみを乱暴に仕掛けるような組手稽古は一利はあっても多大な害があると思います。また、そのような組手稽古は日本武道が到達した高次の理念を重視する、私の空手道場(極真会館増田道場)では強く戒めるものです。

自己の中心を護る

 私の主宰する空手道場において実施する組手型と試合修練について解説します。まず、一言で言えば、組手型と試合修練の意義は、「自己の中心を護る理法(道)を学ぶこと」です。しかしながら「自己の中心を護る」と言っても、抽象的すぎて理解できないと思います。ゆえに以下、より詳細に解説してみます。
 ここでいう「自己の中心」とは物理的な中心のみならず心理的な中心を併せ持った中心です。そのような中心を拓心武術の修錬用語では「中心」とします。そのような中心から技が発せられると考えるのです。また、自己の生命を脅かすような技、すなわち自己の中心を取り(奪う)にくるような技に対し、自己は中心を取られず、逆に相手中心を取らなければなりません(奪ってしまうこと)。そのような認識で行う修練が本来の武道修練です。しかしながら、皆、その認識に立っていないと思います。その原因は、技のやり取り、そして目的が、単なる「当て合い」または「投げ合い」をゲーム化し、そのゲームの勝敗に価値をおいているからでしょう。そのような考えは日本武術が到達した武道思想を忘却していると言わざるを得ません。もちろん、そのようなゲーム化による効用はあるとは思います。しかしながら、同時にその弊害もある、と述べておきます。そして、その弊害を取り除き、本来の効用を取り戻すためには、組手型と試合修練を車の両輪の如く機能させるべきだ、と私は考えています。なぜなら、武術の修練とは、単なる試合の勝敗を目的とするのではなく、自己の命を奪いにくる技から自己の命を護るために、その技を制するためのものだからです。そして、武の基本は、相手の技を未然に正確、かつ、より迅速に予知することです。
 そのような基本を見据てているからこそ、相手と対峙した時には、相手の中心を見極め、かつ自己の中心をそれと合わせることを組手型の修練(稽古)の基本とするのです。すなわち、相手と中心を合わせることができ、初めて、相手の技をより良く避け、かつ制する技を発現させることが可能となるということです。言い換えれば、相手と一体化して初めて、武のより良い技を創ることができると言っても良いでしょう。
 その原則を理解するために組手型の修練では、相手と対峙した時にまずは互いの中心を合わせるということを重要とします。そこから、相手の中心の変化とその変化によりよく対応するための理合と技術を体得していくのです。以上の前提に立ち、拓心武術における組手型の全ては、「自己の中心を護る」ということを武の理合の根本とするのです。さらに、組手型で学んだ理合を試合稽古において吟味すること。また、試合修練によって他(相手)の中心の多様な変化の形を学び、その変化に対し、自己の中心を奪われないよう、理法(道)を体得し、かつ不動の自己の中心を形成、育んでいくのです。このことが拓心武術の組手型と試合修練の意義です。また、私の主宰する道場では、空手や拳法の修練の他にも、相手を投げ倒したり、関節を決め、相手を制する「柔法」や棒などを使い、相手を制する「武器法」の修練を加えていきます。断っておきますが、私の能力と寿命により「拳法」以外の部分は未完成のまま終わるかも知れません。しかし、「拳法」の部分をより高いレベルにするために、柔法と武器法の修練が必要だと思います。なぜなら、柔法や武器法などの修練により、心身の働きや機能を、他の角度から見ることができるようになるからです。そして、他の角度から心身の理法を考えること(稽古)により、理法(道)の実相(じっそう)をより鮮明に見取ることができるのです。特に武器法の理解は重要だと思います。しかし、断っておきますが、私のいう武器法は古流空手の武器法を学ぶことではありません。その意義とは、日本武道の底流にあると思われる「太刀(日本刀)との対峙」による自己の中心との対峙と把握です。そのような認識を得て初めて「自己の不動の中心(心)」を掴み、育んでいける、と私は考えています。

組手型修練の原則の詳細

 組手型修練の原則の詳細について述べてみたいと思います。まず組手型の修練(稽古)では、攻撃技を仕掛ける「受け」と攻撃技に応じる「取り」と立場を分けます。
その「取り」の側から見ると、「受け」とは、中心を奪うための攻撃技を仕掛けていく相手です。一方、「取り」とは、中心を奪いにくる「受け」の技から自己の中心を護る側です。同時に「受け(相手)」の中心を逆に奪い取る者のことです。つまり、型(組手型)の修練の意義とは、相手の攻撃から自己の中心を護るために、相手の技の中心を崩し奪い取ってしまう対応法(応じ)の原理を学ぶものなのです。そのために、攻撃技を原理的に細分化し、その細分化された攻撃技に対し、より良い対応法の型を規定しているのです。そして、その規定を習得することで、さまざまな攻撃や変化(相手の)に対し、自己の中心を崩すことなく対応できるようになるのです。また「受け」の側から見れば、他者の中心を奪い取るための攻撃技を仕掛ける場合の原則を学びます。その原則とは、自己の仕掛け方が粗暴で恣意的なものの場合、武の理法(道)を体得した者と対峙したなら、技は破れ、かつ自己の中心を奪い取られてしまうということです。平たく言えば、「取り」の応じの型を体感することで、斯様に攻撃技を外され、かつ崩され、反撃を受ける」という原則を学ぶ立場が「受け」の立場です。ゆえに「受け」の意識も、自己の中心を見極め、かつ技の精度を上げることを意識しなければなりません。また、中心に含まれる心の働きを純粋にすることが肝要です。さらに言えば、組手型の修練は、「受け」と「取り」、それぞれの立場における技の精度、意識の真(実相)を吟味することが必要です。
 補足を加えれば、組手型における「受け」そして「取り」の意識の共通項は、自己の中心と対峙することです。そして、武術修練における組手型の修練では、自己の中心との対峙の意味は相手(他者)の中心との対峙となるのです。もう一つ大事なことは、組手型の修練(稽古)を初めて行う際は、「受け」の立場には、組手型の意義、目的、意味のわからない者ではない方が望ましいと思います。要するに、攻撃を適当に行う者ではなく、相手の力量に合わせ、時にゆっくり、また、より正確に攻撃技を出せる上位の者が行うことが原則です。

 以上が組手型の修練(稽古)の意義と目的、そして意味の説明です。これまで私は先述した原則と原理を意識しながら、空手道でいう約束組手の稽古を行ってきました。しかしながら、40年以上も稽古指導をした中、その意義を理解した黒帯は皆無でした。その原因は私が以上の原則と原理を真に理解していなかったからだと反省しています。

「不動の中心」を掴み、絶対不敗の境地に立つ

 その反省点に立ち、私は長年の修練・稽古法の研究と改善を思案してきました。そしてようやく新しい修練・稽古法を編み出しました。それが拓心武術の組手型と試合修練です。
そこに至った経緯、そして考え方を誤解を恐れずに述べれば以下のようになります。まず、空手の稽古が私が考えるような武の真髄に至らないのは、私が修行してきた空手における約束組手という概念が形骸化し、浅いこと。
また、徒手武術の基本である顔面(頭部)への打撃を基本としないことだと思っています。
そこし脱線しますが、剣術のような絶対の威力、道具である太刀(日本刀)を扱う武術に対し、空手武術は、徒手が基本ですから、どう頑張っても絶対的な境地に至らないのです。この絶対的な境地が日本武道の真髄である理法(道)であり、中心だ、と私は考えています。もちろん、空手の先達も絶対の技を追求したのだとは思いますが、肉体の力に頼る理法は、未だ道に到達してはいません。そのように述べることは、誠に不遜なのですが、あえて述べておきます。日本武道の先達が到達を目指した境地は絶対的な境地です。言い換えれば、「不動の中心」を掴み、絶対不敗の境地に立つことです。

 話を戻して、空手の場合、剣術における「組太刀」とは異なり、相手の攻撃に対する技の稽古を約束組手とし、型を独り型においていることが挙げられます。その結果、約束組手の意義が単に受け返しを技を覚えたり、反射神経を鍛えるのみのものだ、とほとんどの人が理解しているのだと思います。同時に型は、武術の意義から逸脱した価値によって判断、評価され、修練されています。もちろん、型を編んだ先達には、武の技への認識があったとは思いますが、それが継承されているとは思いません。また、新しい価値を空手に付与し、修練することにも一定の効用はあるでしょう。しかし、そのような浅い技の理解、また意識の稽古は、武の稽古ではないと思います。
 例えば、約束組手の稽古によって、受け返し技を覚え、かつ素早い反射神経で相手の攻撃に対応するとしましょう。そのような意識と動きには無駄な動きが多すぎるのです。いうまでもなく、武術の技術には、鋭い反射神経が必要です。しかし、もっとも重要なのことは、反射神経、体の動きを無駄なく繋げ、相手の技の発動に対し間髪を入れずにそれを制する術と能力を養成し、同時に絶対の心(不動の中心)を育むことだと思います。そのような能力と心を体得するには、自己の動きや技の原理(理合)を突き詰め、それを活用する新たな原理を創出し、それを我がものとすることが必要です。かくいう私の能力はたかが知れています。しかし、日本武術の先達が到達した技の理合や思想の片鱗に触れると、その深さに驚愕を覚えずにいられません。
 再び脱線すると、日本の剣術は、1000年以上の長い封建制度の時代において生成化育された日本の身体文化であると共に精神文化だと思います。その剣術と比べれば、空手はまだまだ浅い歴史しか経ていません。もちろん、私の剣術に関する知識などはないに等しいものです。しかしながら、その哲学の片鱗を読み知ると、私は古の武人と技に最大の敬意を払わずに入られません。
 話を戻して、私は不遜ながら、日本武道の思想を探求すると同時に我が極真空手に反映させようと模索してきました。そして改善点を多々見出していましたが、改善するには至りませんでした。しかし、ようやく50年近くたって、不動の中心への到達を目指して、稽古法の改善を試みています。その稽古法の改善が拓心武術・武道を基盤とする顔面ありのTS方式の組手法・試合法と組手型の稽古の実施です。しかし、私の考える武道、また日本武道の精髄が、物事を洞察するということ、すなわち哲学することだと誰も理解していません。

組手型と試合の修練は車の両輪の如し

 ここで、私の組手型と試合修練の指導法について少し述べてみます。私が稽古の際、心掛けているのは、「組手型と試合の修練は車の両輪の如し」「自己(取り)は「攻撃技を仕掛ける相手の中心を自己の技(対応)によって奪う(取る)」という原則を伝えることです。さらに伝えたいことは、本道場における武術修練とは、「自他の心身をより善く活かす理法(道)を求める修行」だということです。そのような修行のおける要点は、組手修練においては目先の勝ち負けに囚われず、その裏側にある道(理法)に目を目け、理合と一体化した技の体得を目指すことです。
 
 そのためには、皮相的な勝ち負けに一喜一憂するような組手稽古、試合稽古をしてはなりません。あくまでも、「組手型稽古と試合の修練は車の両輪の如し」です。その稽古の目指すところは、道(理法)の感得という境地(目的地)です。そのためには道(理法)を地図のように意識しなければなりません。そのような武道が極真会館増田道場の空手道です。また、その地図が増田道場の修練体系に組み込まれた、拓心武術の修練体系であり、拓心武道の思想なのです。
 もう一つ、先述した拓心武道の思想によれば、試合においてはたとえ規定(ルール)による勝ち負けが宣せられても、その勝敗に一喜一憂してはなりません。本道場が実施するTS方式の組手法は、「技あり」を点数に換算し、規定時間内における点数の多寡によって勝敗を決します。しかしながら、試合後は感想戦によって、その「技あり」を吟味すること、すなわち、全体の勝敗ではなく、「技あり」を取った局面における技のレベル(制心−制機−制力の一致)を吟味、分析することです。つまり、試合の勝敗よりも、試合の中で顕れた、技のレベルを判断、理解することが試合稽古の真の意味なのです。
 補足すれば、そのような感想戦、吟味を行うために「組手型」は「物差し」として使うものだ、とも言えます。また、試合稽古は「生死を分ける局面」において理法(道)合致した技を使えるかを目指すために必要な稽古だ、と私は思っています。その生死を分ける局面は絶えず流れるが如く変化しています。ゆえに絶えず自己の中心を奪われないためにも、「制心」「制機」「制力」の一致した技の執行を心がけなければならないのです。
そのような思想によれば、組手型と試合修練の際、意識すべきことは、相手と対峙しながら同時に自己の中心と対峙することです。これが相手との一体化の意味です。同時に、自己の中心を相手の動きや形に引きずられ、崩し、奪われることのないようにすることです。言い換えれば、相手の中心を自己の中心と合致させ、、相手の中心のわずかな変化に気付き、かつ自己の中心の変化に心を配ることです。さらに言えば、私が考える武道の修行とは、その自己の中心を他(自己以外の全て)に決して奪われることなく自己を維持することを目指すことなのです。

自己の中心を活かす対応

 武技と言わず、他によって自己に働きかけらる全ての技は、それによって自己の中心を奪われず、自己を失うことなく、「自己の中心を活かす対応」につながらなければならないと思います。もちろん、それができる人間は皆無かもしれません、しかしながら、私は人間には本来、そのような理法(道)を知っているはずだと思っています。例えば、生まれたばかりの赤子の中心は、その理法に則り、対応しているのではないかと思います。しかし、その無邪気でかよわい赤子に危害を加えようとするような行為に対し、自己の中心と心身を護るために創出され、かつ有事に発動される技と精神が日本武道と言えるものだ、と私は考えています。また、その精神を理念のみならず形にあわらしたもの武士道です。残念ながら、その精神は時代の荒波に飲まれ、変節し忘却されたように思います。そこまで極論せずとも、ほとんどの人間は生まれてから、やがて意志(自我)を持ち、人間として成長します。私は、その自我の成長の仕方に諸問題の因があると思っています。確かに自我の成長が人間の成長でもあり、また優れた自我は社会を発展させたりもするでしょう。しかしながら、社会を統べるために権力や権力者、権力構造が必要なのは仕方ないとして、その権力の裏に働いている自我の決定、言い換えれば、判断と選択、そして行為が無邪気な赤子、すなわち弱者に対し、邪心に満ち、横暴なものだとしたら、皆さんはどう思いますか。よほどのことでなければ、「仕方ない」また「法に触れていなければ良し」というように判断しますか。私は、そのような消極的な考えを肯定しません。もちろん、偶発的で本当に仕方のないこともあるかもしれません。しかしながら、もし重大な判断と選択に偏見や好悪の感覚が混じっているとしたら、私は納得することができません。なぜなら、そのような判断と選択は、赤子を殺すような行為、言い換えれば、まだ可能性が残された弱者を踏みつけにするような判断と選択だと思うからです。そのような判断と選択、そして行為は、次世代と子孫に必ず、怨念と禍根を残すように思います。もちろん、私はそのような怨念や禍根を乗り越えていかなければならないとも思いますが、赤子の心を踏み躙られるような体験をした側からすれば、していない者がそのような上から目線で諭しても、果たして納得してくれるでしょうか。赤子の心を踏み躙られるような体験をした私には、納得できません。
 随分と大げさな話になりましたが、私がここで述べたいことは、自我が成長し、優れた理性を発揮する大人であっても、今一度、その判断と選択を理法(道)に照らして、人間本来の中心を見失っていないか、見直す必要があると言うことです。また、繰り返しますが、自己の判断と選択が理法(道)から外れるのは、知識が増えたことによる損得勘定、そして偏見や好悪によって行われていないか見直すと言うことです。さらに言えば、百歩譲って、人間に偏見や好悪が生じるのは仕方ないとしても、それを自己の有する何らかの「力(権力)」を背景に押し付けるのはよくないことだと思います。かく言う私の論も私の偏見や好悪だと思われるなら、さらに私は耐え続けるだけです。ただ、そんな人間の在り方が、有史以来、さまざまな理不尽、争い、葛藤を生み出してきたのでしょう。そして、私は我が国が育んだ武の先達と時空を超えて対話し続けます。
 私のバックボーンである極真空手は、組手の際、相手に突き蹴りを当てるという修練方法を唱えてきました。また、突き蹴りを一撃必殺のものとせよ、と教えてきました。そのことは、弱い身体と対峙し、それを鍛錬し強化するという意義はあると思います。しかしながら、技の威力を高めるために身体鍛錬のみが武術の修練だとは思いません。私は身体鍛錬も技の修練にも共通するのは、自己の身体の限界に挑みつつ、自己の中心を掴むことだと思っています。それは「自己が強い」と信じるためのものではなく、むしろ「自己(心身)は弱い」あるいは「自己はまだ未熟だ」と言う認識を超えでるためのものだと思っています。言い換えれば、自己の心が作る限界や壁を乗り越えることです。その乗り越えるとは、例えです。その例えの企図するところは、自分自身を他者から与えられた言葉によって限定して認識してはならないということ。そして自己の中心の自覚によって自己の可能性を感じることが大事だということです。

悟りを形にしていく〜100人組手の修行

   私が若い頃、挑んだ100人組手の修行を、私は自己の中心を掴むための修行だと認識し臨みました。それは、「悟り」の経験だった思います。ただ、そのような明確な認識を有する者はいないかも知れません。これまで、私は「自己の中心」や「悟り」という言葉は使ってきませんでした。なぜなら、誤解を与えると思ったからです。しかしながら、私の人生も最終章に近づいてきました。そして、新たな武道論を展開するにあたり、誤解を恐れずに書き記していこうと思っています。おそらく、歴代の100人組手修行者も私の思想を知れば、私の考えを理解してくれると思います。
  私の場合、大事な組手の世界大会の前に100人組手の修行を行ったが故に大きな犠牲を払いました。それは、100人組手の修行により、私は一時的ですがスタミナや体力を大幅に失ったのです。しかしながら、その見返りに、と言えば、語弊がありますが、「悟り」のような感覚を得たのです。それは相手の中心の変化を自己の中心で感じ、かつ間髪を入れずに技で対応すると言う「応じ(技)」の原理と原則があるということです。さらに、真の勝、そして不敗とは、誰かの作った価値によって判断されることではなく、中心を奪われずに破邪顕正を執行するならば、自然と得られるものだという認識です。私はそのような認識と覚悟で100人組手の修行の後の世界大会に臨んでいました。その結果、誰にも負けなかったと確信しています。しかしながら、その悟りも、人間の欲心、そして自己の間違った判断と選択ゆえの争いに身を投じたことにより、自己の中心が奪われてしまいました。その結果、私の心身は衰え、体得した「悟り」は消えました。しかしながら、それから数十年の人生の中における思索により自己の愚かさ、間違いを痛感しています。
  その100人組手の修行から30年近くも経ち、私も還暦を越えました。残された人生もわずかでしょう。しかし、あの悟りを再び本物とするために最後の挑戦に挑むつもりです。確かに、体力や気力等は衰えました。障害もあります。しかしながら、今一度、私は自己の中心を信じ、それを活かしていきたいと思っています。
 具体的には、かつて自己の心身に浮かび上がった「悟り」を形にしていくことに尽力します。また、その後継者の育成です。その形を表すための枠組みが組手型と試合修練を車の両輪の如く体系化した、拓心武術です。私は、世界の現実が多様な文化的背景による、個々人間に差異があり、本当は理解が困難かもしれないと思うこともあります。その現実を打破するために芸術家や文学者、などが新たな価値を提示しようとしているように思っています。同様に、他を殺傷するような武を根源とする武術であっても、その修行の核に「自己の中心を護りことは自己を活かすことであり、自己を活かすことは他者を活かすことである」という「悟り」を見失わないこと。もし、そのことが真に体得できtれいれば、敵対する者にも偏見を持たずに理解、そして対応できるはずです。そして、そんな悟りの境地を目指すことを武術修練の目的とするならば、武術が人類の平和共存に向かうために有効な人間修行の手段となりうると思っています。
  最後に、私の主宰する極真会館増田道場の修練体系に組み込まれた拓心武道は、極真空手のみならず、あらゆる武術を活かし、進化させるものです。その核心は拓心武道哲学の形成です。しかしながら、その哲学とは私のみの哲学を指しているのではなく、武術修行者の一人ひとりが自己の中心を自覚し、かつ活かす過程において形成されるものを指しています。そして、私が心の中心から望むことは、道場生が拓心武道の修行によって、一人ひとりが「自己の中心」に目覚め、自己に備わっている霊性を活かして、より良い人生を全うすることです。(2022年8月21日)

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